「日常」を奪われた彼らを支えたのは・・・ 西日本豪雨災害、あれから1年

高下国治さん・敏子さんの写真 広島県の被災者、高下さんご夫婦

未曽有の豪雨により、広域にわたって大水害が発生した「西日本豪雨災害」から約1年。
被災者、そして被災地のために活動してきた人たちにとって、どのような時が流れたのか・・・。
この1年を語る言葉の中には、“人と人”の関わりから生まれた“つながり”がありました。

[広島]「まさか雨くらいで・・・」思いがけないことの連続

災害直後の広島県坂町と1年後の広島県坂町の写真 写真左:広島県坂町の災害直後。家をはじめ電柱も橋も流され、道は完全に土砂で埋まった。
写真右:広島県坂町の1年後。土砂は撤去されたが、家の再建は一部にとどまる。

《広島県:被災者、高下国治さん・敏子さんの経験談》
「避難所内の赤十字の救護所で、主人に血栓が見つかって・・・」と、当時を思い返す高下敏子さん。赤十字の医師のアドバイスを受け、夫の国治さんを大きい病院に連れて行き、処置を受けたそう。
「そのまま気づかずに放置していたら、危なかったかも」と語る敏子さんの横で国治さんもうなずきました。

高下国治・敏子さん夫婦が暮らしていた広島県坂町の小屋浦地区は、土石流が発生するなどし、15人が犠牲になった場所。町の東西に流れる天地川の上流で暮らしていたご夫婦は、あの夜、見たこともない情景を目撃したと語ります。
「夜になって川の音が聞いたことがないくらい大きくなり、2階の窓から川を見たら、民家の屋根や大木が流れていました。近所の方と窓越しで励まし合っていましたが、朝方、ドーンという音とともに家が揺れ、いっきに土石流が1階へ流れ込んできました」と国治さん。
救助隊に助けられたものの、近くにある指定の避難所は満員で入ることができず、行くあてもなく途方に暮れる経験もされました。
「何かあったらここに避難すればよいと聞いていた場所に入れず、用意していた防災グッズや備蓄の食糧も流されて。荷物を持ってもっと早く避難していればよかった、と後になって思いましたが、大雨くらいでこんなことになるなんて想像もしませんよね」
ご夫婦はその後、離れた場所にある体育館での避難所生活を送ることに。
「避難所では1日1日を過ごすことに精いっぱいでした。でも、ボランティアさんや、毎日血圧を測りに来てくださった赤十字の方と話す何気ない会話に、元気をもらいましたね」と敏子さん。少しずつ日常を取り戻しつつあるお二人。しかし1年後には、現在暮らす仮設住宅を出て、新しい生活を始めなければなりません。

お弁当1つ、その向こうにも“人の優しさ”が見える

高下国治さん・敏子さんの写真

「避難所生活で一番感じたことは“人の優しさ”。顔を合わす方はもちろん、避難所に毎日届けられるお弁当や、全国から集まる救援物資といった物からも、その気持ちは伝わってきました。家の片づけに来てくださったボランティアの方は、今でも近くに来たら声をかけてくださって・・・。人って本当に温かいし、頼りになります。今こうして私たちが笑顔で過ごせるのは、あの当時も、そして今の暮らしでも、誰かとつながっているから。支えてくれる周りの方々に、自然と感謝の気持ちが湧いてきます」(敏子さん)

[岡山]赤十字ボランティアでは当たり前の“声掛け”で、熱中症の救急搬送がゼロに

防災ボランティア、加藤典子さんの写真

《岡山県:赤十字防災ボランティア、加藤典子さんの経験談》
大規模な冠水被害が起こった岡山県倉敷市。日赤は早くから医師や看護師を派遣していました。加藤さんが、災害ボランティアリーダーとして現地へ視察に向かったのは発災から1週間後。
「医師や看護師でもない私に何ができるかを考え、まずはできることからと全国から駆けつけたボランティアさんのサポートに回ることにしました」と加藤さん。当時は、ボランティアが熱中症で倒れて搬送されることが問題に。
「薬を多く用意しようなどの声が上がる中、日赤のボランティアが“熱中症は予防できる”と提案。それから毎朝、熱中症の注意喚起の呼び掛けレクチャーを開始しました。個々の体調管理も大事ですが、同じチームで活動するボランティア同士が“バディ(仲間)”となり、横で作業するバディの様子が変わりないか?急に無口になっていないか?顔色は?など、互いに気づかいながら作業をすることの大切さを伝えました。そのおかげか、救急搬送がゼロに。今までやってきた何気ない“声掛け”の力を感じました」

治療はできなくともボランティアだからこそできることがある。これは日々の活動から得ていた知識でした。
「11月ごろからは仮設住宅への訪問を行っていますが、ここでも“声掛け”は絶大な力を発揮。初めは心を閉ざしていても、次第に打ち解けて信頼をしてもらえるようになるのが不思議です。これからも多くの人とつながっていきたいです」

いつも背中を押してくれる“黄色いビブス”

熱中症レクチャーを行う加藤さんの写真 2018年、倉敷の災害ボランティアセンターで熱中症レクチャーを行う加藤さん

「私に何ができる?と考えたときに力を貸してくれたのが、日赤の“黄色いビブス”。これを着て声を掛けると、みんな耳を傾けてくれます。それはこれまで培ってきた赤十字の歴史があるから。背負う重さもありますが、だからこそ自分自身も姿勢を正すことができ、活動を続けられるのだと思います」

[愛媛]災害が起こって気づいた行政の使命

篠原雅人さん、係長・冨永哲成さん、桑村英里さん、井脇清美さん、中野芳将さんの写真 左から肱川地域復興支援担当部長兼支所長・篠原雅人さん、係長・冨永哲成さん、
桑村英里さん、井脇清美さん、中野芳将さん

《愛媛県:被災地の行政、大洲市肱川支所のみなさんの経験談》
愛媛県大洲市肱川町は、肱川の氾濫により冠水。3階建ての支所も2階まで浸水し、町の多くが水に浸かりました。
「私たちは3階に避難しましたが水が引き始めた町を見て愕然(がくぜん)としました。流されて重なり合った車、散乱するがれき。心がついていかず涙も出ませんでした」
と語るのは篠原支所長。そこからは町のライフラインの復旧、浸水した家屋の清掃や消毒、町民のさまざまな相談対応、と行政の業務に追われ続けたそうです。
「町民から行政が改善すべき点をたくさん指摘されました。例えば、行政からの情報が末端まで伝わらなかったこと。災害によって町内の放送機器が一部の地域で壊れ、伝達不能になったのです。災害が起こるまで気がつかないことが数多くありました。そういったことを十分に検討して備えるのも今後の大切な行政の仕事です」

行政職員も被災者、“こころのケア”は重要

こころのケアチームに相談中の篠原支所長の写真 発災後、被災地に入った日赤のこころのケアチームに相談中の篠原支所長(右)

「発災から数カ月は悪夢のようでした。電話が鳴り続く狭い部屋で災害対応を行っている職員たち、彼らもまた被災者です。浸水した家のことを心配していても町民のために休みなく働き続け、疲労とストレスで力尽きてしまう。日赤さんが行っている“こころのケア”は行政の人間にも必要と痛感しました」(篠原支所長)

復興の一歩一歩が、町の絆を深めていく

リニューアルした図書館の内部の写真 リニューアルした図書館。町民の要望により奥には小上がりの畳スペースも作られた

「6月に新しい図書館がオープンしました。水害で蔵書がすべてダメになったので、新しくなったのは建物だけでなく、本もすべて新刊本。棚にずら~と本が並んでいる様は壮観!館内に満ちた新刊本のにおいにもワクワクです。 この図書館のオープンを、町全体が待ち望んでいました。新しい図書館は、行政職員と町民が何度も話し合い、アイデアを出し合って、完成したもの。こうして町の絆を深めながら、一歩一歩、復興を進めていきます」

豪雨災害発生当時の肱川の町並みと1年後のほぼ同じ場所の町並みの写真

写真左:昨年の豪雨災害発生当時の肱川の町並み。風情ある商店街の姿。
写真右:1年後、ほぼ同じ場所の町並み。浸水被害により古い家屋や建物の多くが取り壊された。