【赤十字とわたしSPECIAL】 阪神・淡路大震災から25年 1995年1月17日午前5時46分に発生した阪神・淡路大震災。多くの方の人生を変えたこの震災で、被災者として、また被災地の支援者として、その後の生き方を変えることになった「赤十字人」たちの経験をご紹介します。

災害はいつも「想定外」。だからこそ、防災知識は常に最新に

日赤兵庫県支部 青少年赤十字指導者、防災ボランティア
〈被災者〉住野日出世さん

高校は避難所に指定されており、マニュアルでは、学校職員は避難所提供の準備を行うだけであとは行政職員が管理を行うことになっています。ところが行政も被災しているから学校に現れない。学生時代から赤十字活動に取り組んできた私は自然と、「自分たちで避難所を管理運営しよう」と教員同士で声を掛け合い整備を始めました。
 当日の昼過ぎ、まだ高校が避難所として本格的に機能する前で、これからどうしていくかと話し合っている最中のこと。近隣の方から「遺体が下敷きになっているから手を貸してほしい」と助けを求められたのです。崩れた家の下敷きに見えた半身は、その家のおじいさん。ピクリとも動かず既に亡くなっておられることは明白でした。4人がかりで梁を持ち上げてご遺体を引き出し、同僚の車に毛布を敷いて載せました。同僚が運転する車で、私たちは見ず知らずの人のご遺体を運びました。近くの安置所はどこもいっぱいで、遠くまでご遺体を運んだんです。こういうことを行うのも行政ではなく地域の住民たちです。その日も、その翌日も、街には遺体を運んでいる車が数多く行き交っていて、何も特別なことだとは感じませんでした。
 学校は体育館や教室を開放し、集まった避難者は最も多いときで1200人。「72時間は自分たちの力で乗り切ろう」と決め、職員は役割を分担して働きました。当時は備蓄の意識が低く、学校に飲料水や食料の備蓄はゼロ。水道が使えない中、飲料水が届いたのは発災から30時間が過ぎてから。真冬だからなんとかなったのだと思います。
 2月になると学校は通常授業を再開、ようやく一段落ついたころ、同僚から「赤十字を手伝いたいのでしょう? 行っていいよ」と声を掛けられたのです。私が担任する3年生は受験のために授業がなく、おかげで兵庫県支部に3月末まで通うことができました。
 支部周辺は全国からの赤十字病院の救急車や物資を積んだコンテナで埋め尽くされ、広くはない建物の中は他県から支援に来た日赤関係者でごった返していました。私は、人手の足りない義援金の部署で全国から届くFAXのリスト整理などを、進路の決まった生徒の力も借りながら手伝いました。
 私は、災害はいつも「想定外」だと考えています。新しい災害が起こるたびに、新たな被害、新たな教訓が出てくる。自分や大切な人たちの命を災害から守るためには、過去の経験を語り継ぐのと同時に、防災学習には常に最新の事例を取り入れ、高い防災意識を維持することが大切なのではないでしょうか。

赤十字の精神を理解し、私の心の礎になった瞬間

神戸赤十字病院 看護部 看護師長
〈被災地での医療支援者〉國出和子さん

その日は、救急搬送が多い夜でした。深夜勤でやっと一息つき、座ろうかと思ったところで激しい揺れが襲いました。
 何が起きたのかわかりませんでした。先輩看護師は揺れながらも人工呼吸器が付いている患者さんのところへ向かいます。私は動揺で過呼吸になっていましたが、担当する患者さんの病室を目指しました。緊急の対応が続く中、本館と新館をつなぐ場所の境目に大きな亀裂が入り、暗い建物の中で朝の光が筋となって差し込むのが見えて、恐怖を感じたのを覚えています。
 それから2日間は病院から一歩も出られず、次々と運び込まれる患者さんへの対応に追われました。私は家族が安否不明で、病院のテレビに亡くなった方の名前が出ると家族の名前を探さずにはいられない状況でしたが、今すべきことは何?と自分を叱咤し、働き続けました。
 混乱の中、ある患者さんが暴れて呼吸器の管が抜けるトラブルが発生しました。患者さんを危険な目に遭わせた!と自分を責め、支援に来ていた他県の大学病院のドクターを捕まえて必死に処置を頼むと、その方は私にこう言ったのです。「赤十字病院の看護師さんはすごいな。こんな状況でも当たり前のように患者さんを受け入れて、休みなく働いて、献身的に仕事をする。さすがだね」。
 一瞬、ポカンとしました。同僚の看護師にも、家族が安否不明だったり、自宅が被災してぐちゃぐちゃで、避難所から通勤している、そういう方がたくさんいます。それでもみんな、献身的な医療活動を続けていました。私の仕事ぶりは特別なものではなかったのです。しかし次の瞬間、頭に言葉がひらめきました。「これが、赤十字の精神だ」。
 実は、震災が起こる前まで、私は赤十字病院を辞めることを考えていました。大学病院付属の看護学校を卒業し、民間の病院を経て神戸赤十字病院へ転職。歴史と伝統があり、堅いルールに縛られている赤十字病院は息苦しくて、肌に合わなかったのです。最も苦手だと感じたのは、何かにつけて言われる「日赤精神」という言葉です。その価値がわかりませんでした。しかし、ドクターの言葉によって初めて理解できました。この病院の看護師たちは、共通の理念を持って仕事をしている。それが赤十字の精神、「人道」だ、と。それは、古くて堅いと感じていた赤十字が、私にとって看護師としての“誇り”と“心の礎”となった瞬間でした。赤十字の看護師として恥ずかしくない仕事をしようと心に誓い、今も「赤十字の看護」を実践しています。

災害を経て、「人を救うこと」がライフワークに

日赤岡山県支部 事業推進課 事業係長
〈県外からの支援者〉土居正明さん

岡山県の福祉系の大学に入った私は、学生奉仕団として赤十字活動をしていました。神戸の震災は2 年生の時。岡山は震度4程度で、大学には普通に行きましたが、ニュースで流れてくる情報で事の重大さを知り、日赤岡山県支部へ「できることありませんか?」と電話しました。その電話でも支部の繁忙さが伝わってきて、ともかく翌日から支部に行ってみることに。兵庫の隣県である岡山県支部も、救護班や赤十字の関係者が集まって、もうてんやわんやの騒ぎ。そこで学生奉仕団がボランティアのコーディネートをすることになりました。そこから2カ月間、片道1時間かけて岡山県支部に通う生活が続き、業務の合間に支部から被災地に向けて出るボランティアのバスを見送るのが私の日課になりました。
 携帯もネットもない時代にボランティアの登録や調整管理を行うことがいかに大変か…。岡山での奉仕活動を休み神戸の被災地へボランティアに行った時、そこで見たのは指示を待ち続けて事務局にあふれているボランティア希望の人々。被災地には支援を必要とする人はたくさんいるのに、需要と供給をマッチさせられない。とにかく、手が足りないんです。支援する側にも限界がある。もどかしさを抱えながら、短い期間でしたが被災地でボランティア活動をしました。
 この震災の経験が決定打になって、大学卒業後は日赤に就職。台風や地震など、大きな災害をたくさん経験してきました。2018年の夏の豪雨災害では初めて支援を受ける側になり、赤十字が全国組織であることを強く実感しました。被災して目の前のことに追われ、外部に応援を頼むことすらままならない私たちのもとへ、全国の赤十字関係者がぞくぞくと応援に駆けつけてくれました。赤十字の有り難さ、心強さを強く感じました。
 今、使命感を持ち、ライフワークとして取り組んでいるのが救急法の指導者養成と、救護員の研修です。災害が起こったら、どんな知識やスキルが必要になるか。確実に人を救っていくためには、研修や訓練で日ごろから学んでおかないと。「人を救う技術」の向上に日々、真剣に向き合っています。