[ 3.11 あれから10年:第1回 ] あなたに見せたかった...「福島と生きる私」 東日本大震災の発生から2021年3月で10年。 来年の3月号まで「3.11」から人生を変えた人々の物語を毎月連載します。
福島県双葉郡富岡町(発災当時)
田中美奈子(たなかみなこ)さん
「福島から届いたヒマワリの種が、見事に花を咲かせましたよ!」
そう言って、ヒマワリの切り花を掲げて見せたのは、君津市赤十字奉仕団の鎌田和子委員長、あなたでした。
2011年9月上旬、避難先の千葉県の君津市で、毎月開催される地域住民と震災避難者の交流会でのことです。
そのヒマワリの種は、6月ごろに福島の知人から私に届き、鎌田委員長にお渡ししたもの。赤十字奉仕団の皆さんは、毎回、東北の被災地に縁のあるものや、東北の郷土料理を用意して、楽しませてくださいました。
鮮やかな黄色の花束を見て、私は鎌田委員長に声を掛けずにいられませんでした。
「鎌田さん。私、田中と申します。これからもよろしくお願いいたします」
私が名乗ったのは、実はその時が初めて。鎌田委員長は驚いた様子もなく、満面の笑みで、「田中さん。こちらこそ、よろしくお願いしますね」。
交流会では、名前を聞かれることはありませんでした。それは、最初に鎌田委員長が決めたルールだったそうですね。『福島の皆さんのお気持ちにご負担がないように、先方から名乗りがあるまで、名前を聞かずに楽しんでもらいましょう』。なんという気遣いでしょう。鎌田委員長や赤十字奉仕団の皆さんのおもてなしには『主役は避難者の皆さん、私たちは裏方』という徹底したホスピタリティー精神があふれていました。
3月11日の地震・津波発生後、私たち家族9人は福島県双葉郡富岡町から、着の身着のまま逃げました。津波が町を襲い、まずは避難所へ逃げ、その翌日には福島第一原発の事故で、さらに隣町へ。そして千葉県の君津市にたどり着いたのは3月18日の午前零時。
私たちは何もかもを失ったけれど、君津の人々の優しさ、赤十字奉仕団の方たちとの交流のおかげで、少しずつ傷が癒えました。10カ月後、私たちは家族の仕事の都合で福島のいわき市に移り住みましたが、もっと長く君津で暮らしたかったです。
鎌田委員長の訃報は、あまりに突然でした。いわき市に移ってからも連絡を取り合い、2012年5月には被災地を巡った鎌田委員長、奉仕団の方々と、いわきでランチをすることもできました。まさかそれから1カ月後に、急逝されるなんて。
福島から駆け付けた葬儀、最期のお別れで「たくさん人のために尽くされて、お疲れ様でした」と声を掛けたら、鎌田委員長はいつも通りの穏やかなお顔で、ほほ笑んでくださったようで…。
鎌田委員長。あれから私は、福島で語り部を始めました。
「富岡3.11を語る会」というNPOの活動で、さまざまな場所に出かけて行き、東日本大震災での経験を伝えています。
お話の中で、君津で体験したことも話します。あの不安な日々、避難先の見知らぬ土地で、押しつけではない真の思いやりで寄り添ってくれた方たちがいたこと、それがどれだけ私や私の家族に支えになったか…。鎌田委員長に、語り部活動の様子をお見せしたかったです。