ヒロシマでの被爆。私を救ったDr.ジュノーの薬 【シリーズ「わたしも赤十字」第5回】赤十字にはさまざまな形で活動に参加する支援者がいます。 全国の支援者の中から毎月お一人を、温かいメッセージと共にご紹介します。8月は戦後75年スペシャルとして拡大版でお届けします。

寄付での支援者●西敦子(にし・あつこ)さん〈広島市西区/84歳〉

母との別れ、被爆、 それでも生き残れた私

1945年8月6日。当時、小学校3年生、9歳になったばかりの私は、広島の中心地から40キロほど離れた祖父母の家で縁故疎開をしていました。午前8時15分、その瞬間、広島市方向で「とんでもない何かが起きた」ことはその場所からも分かりました。
「とにかく行ってみるしかない!」そう言って、父や母のいる広島へと歩いて向かう祖父に、私もついていきました。

 たどり着いた広島は焼け野原。太陽と地の熱気、言葉にできない悲惨な光景を目の当たりにしました。祖父と歩き回っていると、仕事で下関に行っていて無事だった父と再会。旧広島一中のグラウンドで、兵隊さんが遺体を山と積んでどんどん焼いている場所に差し掛かったとき、火に投げ込まれる寸前の母の遺体が目に留まりました。ぎりぎりのところで母を引き取ることができましたが、どうすることもできません。そこへ偶然、母の知人が通り掛かり、自分の家族を焼くために持っていた油の缶を譲ってくれました。父は油を母に振り掛け、ポケットからマッチを取り出し、小さく念仏を唱えながら火を付けました。

 父の両親である祖父母の家で疎開生活を始めてから原爆投下までの約4カ月間、母に会えたのは、私の誕生日、6月16日の前後2日間だけ。母が会いに来てくれたことが、私には何よりもうれしかった。3日後、学校にいる間も母がいるものと思いわくわくし、跳びはねるようにして家に帰ったら、母はもう居ませんでした。別れがつらくなるからと、私が学校に行っている間に村を出たのです。私はけっして声を上げて泣きませんでしたが、いとこたちと一緒にポンプで水をくみ、風呂に入れる作業をしている間中、あふれる涙を止めることができませんでした。それが母と過ごした最後の思い出です。

腱炎の激痛から開放してくれた、父のペニシリン

私は国から被爆者健康手帳を交付されています。原爆投下から2週間以内に爆心地近くに入った人に渡される「入市被爆者」として。戦後の栄養失調や被爆の影響もあってか、父と二人の生活が始まってしばらくすると、足の腱が熱を持って腫れ上がり、激痛で立てなくなりました。病院も薬もない中で、看護婦をしていた親類のおばさんから「海外の新薬があるらしい。それなら、あっちゃんのコレを治せる!」と聞くと、父はある日どこかからペニシリンを持ってきました。戦後間もない頃、普通の日本人には入手の難しい薬でした。父が相当な財産をなげうって、闇屋さんから手に入れてくれたのでしょう。そのペニシリンのおかげで腱炎は快癒、その後は結核にもかかりましたが、私は生き残ることができました。

 戦後30余年たち、近所に住むジャーナリスト、大佐古一郎さんの本「ドクター・ジュノー 武器なき勇者」を読む機会がありました。原爆投下直後に広島に足を踏み入れ、世界に広島の惨状を伝え、しぶるアメリカ軍と交渉し15トンもの医薬品を入手、広島と長崎の被爆地に送り届けた方がいた。赤十字国際委員会の医者、マルセル・ジュノー博士。そしてジュノー博士が広島に送った薬には、ペニシリンも含まれていた…。私は、そこに書かれていることに驚愕しました。私を救ってくれたのは、ジュノー博士の薬だったのです! 
もう一つ、その本を読んで衝撃を受けたことがあります。それはジュノー博士が、あの「赤十字」の人であった、ということです。

 幼い頃、上海の領事館で働く叔父からの荷物を受け取りに、母と一緒に呉や宇品の港へ行きました。叔父の荷物は大きな赤十字のマークを付けた病院船に乗って届きました。他の船は沈められてしまうのに赤十字の船は攻撃されません。その船からは手足を失った兵隊さんが病院に運ばれていきました。広島には、立派な赤十字の病院と、白く美しい建物の支部もありました。それが子どもの頃に見た「赤十字」の原風景です。敵から攻撃されず、傷ついた人をどんどん受け入れる。「これが赤十字の世界だ」と、子ども心に感じていたのを、ジュノー博士の本を読んで鮮明に思い出したのです。

赤十字とジュノー博士への感謝。数十年間、続けている寄付活動

ジュノー博士と赤十字に心の底から感謝の念が湧いてきた私は、毎年8月6日に行われる灯籠流しの会場で、オーケストラの演奏にコーラスを付け、演奏と歌を聞く方に寄付を呼び掛ける活動を始めました。オーケストラの演奏費など一切取らない無料の音楽会です。コーラスには私も参加しています。集まった募金は日赤の広島県支部へも寄付しています。さらに、毎年秋に地元の小学校へ献血バスが来てくださるので、仲間も誘って、献血の呼び掛けも行っています。
 今年は事情があり、夏のチャリティーコンサートを開催できませんが、来年、そしてその先も、赤十字への感謝の寄付、そして、赤十字のある世界を続けてもらうための寄付は、できるだけ長く、続けていきたいと考えています。

8月6日、チャリティーコンサートに参加する西さん(写真中央/2015年)

「ヒロシマの恩人」Dr. ジュノー

広島の原爆投下後、スイス人のマルセル・ジュノー博士は赤十字国際委員会(ICRC)の駐日主席代表として来日。原爆被害の惨状を知ると直ちにGHQのマッカーサー最高司令官に援助を交渉し、15トンもの医薬品を米軍から調達、自らも広島に入り、被害調査と治療に携わりました。提供された医薬品の中には、当時入手困難だった「ペニシリン」「ブドウ糖注射液」なども含まれています。帰国後は世界へ「原子爆弾による惨状とその非人道性」を訴えました。