[ 3.11 あれから10年:第6回 ]  心を震わす、あの羽音に乗って シリーズ 『3.11~あれから10年を生きて』 第6回/東日本大震災の発生から2021年3月で10年です。 来年の3月号まで「3.11」から人生を変えた人々の物語を毎月連載します。

盛岡赤十字病院の救護訓練に参加する熊谷さん(左から2番目)

盛岡赤十字病院 看護師  熊谷周子(くまがいしゅうこ)さん


「津波に、のみ込まれる…!」
前方の十字路から灰色の津波が押し寄せ、私の運転する車に迫ってくるのが視界に入り、慌ててハンドルを切りました。

地震によって信号がすべて消えている中、逃げようとする車でどの道も渋滞。それでもアクセルを踏み続け、ときに縁石に乗り上げ、車列に割り込みながらも、前へ、前へ! 助手席には母が、そして後部座席にはチャイルドシートの中に生後6カ月の息子がいました。

一瞬、車を止めて、チャイルドシートから息子を抱き上げ、走って逃げることも頭をよぎります。でも、あの津波に捕まったら助からない、車を止めてはダメだと本能が告げていました。

どこをどう走ったか、とにかくハンドルを握り続け、気が付くと津波から逃げ切っていました。津波を見てUターンしてから、恐怖のためバックミラーを見ることができませんでしたが…同じように逃げた数台後ろの車は、津波に捕まってしまったのでは…。その後1カ月ほど、津波に追われる夢に毎晩うなされました。


 私の自宅は勤め先である盛岡赤十字病院の近くにありましたが、その日は実家のある大船渡市に里帰り中でした。津波から逃げた後、母と息子とコミュニティセンターで一夜を明かし、翌日、十数キロの距離を歩いて実家に向かいました。

その途中、津波が破壊した凄惨(せいさん)な光景が続き、「家に戻るのが怖い。家を見たくない」と泣きごとを言う母を励ましながら先を急ぎました。実家のある集落も、壊滅状態でした。ところが私の実家は高台にあったため、庭まで浸水したものの、家屋は無傷。実家で、父と夫と、奇跡的に再会することができました。夫はリュックにおむつとタオルを詰めて必死に私たちを探し回ったそうです。


 電気・ガス・水道が止まっている実家での在宅避難生活が始まりました。あの時の重く閉ざされた感覚を、どう表現したらいいか…。近所の家々は流され、行方不明の方も多く、道路が寸断されていたため支援もなかなか届きません。生き残った集落の人々は、家族や親しい人を失った悲しみだけでなく、見通しが立たない状況に不安を感じ、暗い気持ちで押しつぶされそうでした。

私自身、産休中とはいえ看護師であり、何か役に立ちたいけれど、赤ん坊を抱えて何もできない、それが苦しかった。そんな時です。あの音が聞こえたのは。

集落全体を震わす、力強い羽の音。「ヘリが来たぞ!」。人々はヘリの音に興奮し空を見上げました。DMATを乗せたヘリが、私たちの集落に来てくれたのです。


 ヘリの音が、生きる力に変わる。自分たちには助けに来てくれる人たちがいる、外の世界とつながっている、という思いが、どれほど勇気を与えてくれたか。

その経験から、産休が明けて病院に復職したあと、日赤の救護班の研修を受け、さらに全国各地に派遣される日本DMATの研修も受けました。私にはまだ被災地へ出動する機会が巡ってきませんが、次に大きな災害が起きたら真っ先に救護に向かいたい、そして被災された方々の気持ちに寄り添って、勇気と希望を与える活動をしたい、と「その日」のために備え続けています。