「感染症」との闘い 赤十字WEBミュージアム連動企画 「感染症と赤十字 ~治療と予防の歴史~」
日赤の歴史は感染症との闘いの歴史でもありました。感染症に苦しむ人々に寄り添いながら、感染流行をどのように乗り越えてきたのか、歴史を振り返るとともに、現在に生かせる感染対策を考えます。
西南戦争と「コレラ」
日本赤十字社の歴史は、1877年の西南戦争中に救護団体「博愛社」として設立されたところから始まります。創始者は、大阪の「適塾」の緒方洪庵から医術を学んだ元・藩医、佐野常民。西南戦争のさなか、佐野は東京で物資や資金の調達に奔走しながら、長崎の救護所の部下に何度も電報を送りました。その内容には「空気の清浄、衣服の清潔には特に注意有るべし」と感染症予防の指示が。まさに当時、長崎からコレラの流行が始まり、戦場の兵士、そして全国へと感染が広がっていったのです。しかし博愛社の救護所ではコレラ患者を出さず、博愛社の活動の評判を聞きつけた熊本県令(知事)はコレラが蔓延(まんえん)する水俣への救援を求め、後に熊本での感染症抑え込みの貢献に対して感謝状が贈られました。
その後、日本赤十字社と名を変えてからは、日本初の看護婦養成の教科書に感染症の予防知識を盛り込み、ポスターや刊行物を通して予防普及に尽力し、地域の公衆衛生を向上させて病気を未然に防ぐ「社会看護婦(保健師の先駆け)」養成を開始しました。
関東大震災と 「赤痢、腸チフス」
1923年9月1日、関東大震災が発生。日赤の本社社屋は、ほぼ全焼しましたが、被災全域に51カ所の救護所を設置し、各県から医療救護班を動員、昼夜の別なく206万人を救護しました。また、衛生環境の悪化から各地に赤痢や腸チフスの感染者が出はじめると、感染症が爆発的に拡大することを未然に防ぐため、日赤の中央病院と東神奈川病院に伝染病院を付設、須崎と板橋にも臨時病院を建てて患者を収容、東京府下の感染流行を食い止めることに貢献しました。
太平洋戦争、引き揚げと「コレラ」
1945年に終結した太平洋戦争では戦傷だけではなく感染症によって多くの命が失われました。戦地でも感染患者は隔離されて治療を受けましたが、戦地に派遣された日赤の救護員が衛生状態も栄養状態も悪い過酷な環境で罹患(りかん)し、命を落とした例もありました。患者治療と移送のための病院船では、戦中のみならず終戦後の引き揚げ時にもコレラなどの感染症患者を受け入れ、船尾にある伝染病室に収容し、揺れる船内で救護員は患者の治療と世話に明け暮れました。高熱を出し、脱水でやせこけ、舌が厚い苔(こけ)状のもので覆われて食事を取れない兵士に対し、若い看護師が一生懸命アイスクリームを作って食べさせる姿を綴(つづ)った記録が残されています。
東日本大震災と「ノロウイルス」
2011年に発生した東日本大震災は、ピーク時で47万人が避難生活を余儀なくされました。
行政も被災したため、救護チームは医療救護活動だけではなく、本来は行政が担う公衆衛生、福祉などの分野でも活動しました。例えば石巻では朝から夕方まで避難所をまわり、マスク・消毒薬・手指消毒剤などを配付し、トイレなどの衛生管理の指導を続けました。
避難所で懸念されるノロウイルスはアルコール消毒だけでは殺菌でず、水による手洗いが必要です。各避難所で感染予防の啓発をしつつ、国際赤十字の緊急支援で取り寄せた簡易水道タンクを11カ所の避難所に設置しました。
熊本地震と「ノロ、インフルエンザ」
2016年の熊本地震でも、地震発生から1週間もたたないうちに避難所でノロウイルスによる感染性胃腸炎が報告されました。発災直後から被災地に入った日赤救護班は行政と連携し、衛生や消毒指導に尽力。患者を治療するだけでなく、居住空間の清掃の必要性を伝え、避難所生活者、ボランティアらと共に清掃も行いました。その後、避難所ではインフルエンザも発生しましたが、ノロウイルスもインフルエンザも各避難所で展開された感染予防策によりアウトブレイクを免れました。
【まとめ】
日赤は感染症との長い闘いの中で、「感染症から命を救う」には「感染する前に救う」ことが最重要であると実践を通じて学びました。すなわち一人一人が、1.感染しない環境を整え、2.感染を防ぐ知識を身につけ、3.一人からコミュニティ全体に予防の実践を広げていく、このことが、感染症流行から人々の命を救います。コロナ禍の今こそ、一人一人が予防意識を向上させ、感染を防ぎ続ける行動を大切にしましょう。
平時も続いた「感染症」との闘い
結核撲滅を目指して
国内で最も死亡率が高く、若者が犠牲になった結核に対し、1911年、日赤は結核予防撲滅事業を開始。不治の病と恐れられた結核の専門病院を鹿児島・福岡・山口・広島・埼玉・北海道・大阪・愛知などに設置しました。また京都をはじめとする日赤支部が虚弱児童を対象に夏季保養所事業を開始しました。
ポーランド孤児を腸チフスから救う
1920年、日赤はロシア革命後の混乱で親を失ったポーランド孤児の受け入れを開始。翌年、東京で腸チフスが大流行すると孤児たちも次々と感染。看護婦らの献身的な看護により全快し、全員が母国に帰還できました。しかし、看護中の感染により1人の看護婦が帰らぬ人となりました。
赤十字WEBミュージアム、10月1日オープン!
赤十字の記憶を伝えるWEBミュージアムが完成しました。
日赤が所蔵・保管する5万点以上の関連史料からえりすぐりの137点を写真付きで紹介する「所蔵品紹介」、日赤の歩みをたどる「赤十字ヒストリー」、赤十字とかかわりの深い出来事や人物にスポットを当てる「特別企画」など、内容も充実!
オープニングを飾るのは、本特集と連動する特別企画「感染症と赤十字〜治療と予防の歴史〜」。感染症に苦しむ人々に寄り添ってきた日赤の歴史を、貴重な所蔵資料とともに詳しくご紹介しています。ぜひウェブサイトをご覧ください。