3. 11にはじまった「 命(血液)のリレー」 全国から東北へ! なんとしても被災地に血液を届けよう!

毎年、赤十字NEWS1月号でお届けする献血特集。東日本大震災から10年に当たる今年は、3.11後に全国から寄せられた献血の支援、そして震災当日からの血液のリレーについて、岩手・宮城・福島・東京の各赤十字血液センター職員がリモートで顔を合わせ、当時を振り返りました。

血液のリレーは2011年3月11日・東日本大震災発生当日の深夜に始まりました。
 そこから2カ月ほど続き、東北を支援するために関東で集めた血液を輸送し、関東の必要分は全国から送られた血液が使われるという「血液の循環」が生まれました。
 毎晩8時に、東京都赤十字血液センターを出発した車は、栃木県矢板ICで福島県赤十字血液センターの職員に血液を渡し、そこから宮城県白石ICで、宮城、岩手、山形の各職員へとつながれ。最北の岩手県赤十字血液センターへの到着は翌朝5時になったこともありました。

①リレーのスタート地点:東京都赤十字血液センター

[ 血液事業本部 供給管理課長 杉山朋邦さん ](当時・東京都血液センター 供給課)

震災当時、東京都赤十字血液センター(以下、都センター)は江東区辰巳(現在の関東甲信越ブロック血液センター)にありました。地震発生と同時に建物周辺が液状化したため道路は水浸しになり、すぐ側の高速道路では、緊急停止したトラックの荷台が地震の揺れによって壁面にぶつかる音が鳴り響いていて、辺り一帯が異様な空気に包まれていたのを覚えています。地震が発生すると、血液事業の職員は血液の供給に関わることなのですぐにテレビを点け被害状況を確認します。この時もテレビの前に職員が集まり、東北を襲う津波の映像に釘付けになりました。

東北の血液センターとは電話がつながらないので日赤本社の血液事業本部と連絡を取り、本部とは電話を切らずにつないだままにしました。血液の供給は、普段から365日24時間体制の業務なので勤務は交代制です。地下鉄が動きだすと帰れる者は帰宅するように指示が出ましたが、かつてないほどの非常事態ですから、各課の課長・係長は数日間泊まり込んで対応しました。

都センターは全国の血液を管理していた中央血液センターの流れを汲んでいますので、組織内の名称が変わっても、災害発生時には被災地域の血液支援をどうするか、いち早く動きだします。地震発生直後から、東北へ運ぶ血液を準備しようと調整が始まりました。東北の基幹センターである宮城県赤十字血液センター(以下、宮城センター)と連絡が取れて、血液事業本部とも話し合い、血液の供給数を決めました。その後、警察や道路公団に連絡して緊急車両以外は通行止めの場所でも血液運搬車を通してもらえるように交渉し、地震発生の日の日付が変わったころ、血液を載せた車が都センターを出発しました。まずは東京にある製剤から出していく、そのあと他の地域から東京に集める、という流れです。

例えば血小板の血液製剤が出来上がるのは午前中、そこから空輸で運ぶと都センターに届くのは午後、そこから東北に回すと遅くなってしまうので、関東近県で集めた血液を優先的に東北に回し、関東では全国からの支援の血液を使っていくという循環がここから始まりました。

高速道路を使った血液のリレーは、最初が大変でした。地震の直後は路面の損傷もひどくて、停電のため外灯がつかない。真っ暗闇の高速道路を、危険だからと警察などが先導してくれて走る場所もありつつ、事故を起こさないように慎重に車を走らせました。

血液事業に携わる人間にとっては、東京の患者様も東北の患者様も、血液を待っている患者様に違いはありません。ただ血液を必要としている方のために、必要なだけ届ける、それを至上の使命として活動しています。東日本大震災は大きな爪痕を残し、原発事故の問題や計画停電など暗い話題の多かった時期でしたが、私たちにとって何をどうやっても血液を届けるという、熱い使命で動き続けていた時期でした。

②リレーの中継:福島県赤十字血液センター

[ 学術情報・供給課 学術係長 渡邉範彦さん ](当時・同センター 供給課)

震災後、各地から都センターに東北へ送る血液が集められました。

それを、福島県赤十字血液センター(以下、福島センター)が受け取るため、毎日、栃木の矢板インターチェンジに血液運搬車が向かいました。
 福島の血液センターは内陸にあって津波被害はありませんでしたが、地震で建物に被害があり、約2週間断水、採血も4月まで再開できませんでした。しかし、県内には血液を待っている人々がいます。供給を継続するため、被災していない県からの支援が必須でした。

運搬時間を1分でも短くするためにインターチェンジでの受け渡しが始まったのは発災の翌日からです。矢板では、福島センターが岩手・宮城・山形の血液も受け取り、福島分を別の運搬車に載せて福島県内に向かわせ、宮城の白石インターチェンジまで運びました。そこで岩手・宮城・山形の各血液センターに血液を引き渡します。白石インターチェンジでは赤十字のマークを付けた各県の血液運搬車が今か今かと待っていました。

福島県内もそれまでは通れていた道が通れない状況があったので、宮城・岩手も同様だったと思います。遠回りをしたり、悪路でも通れる道を探したり、血液の運搬を途切れさせないために皆が必死でした。

災害が起こると、各県の血液センターの中にも災害対策本部が立ち上がります。災害時の優先の電話を使って状況を報告し、被災地であっても血液の供給に不足がないように本部と調整を行います。一方で、被災地の医療現場では物資の不足などもあって血液を必要とする手術は延期されるなど、発災直後は通常よりも需要が減って、それに合わせて供給量が抑えられました。

採血ができない期間、福島県内の血液センター、献血ルームの職員は病院や避難所の支援に回りました。日赤福島県支部の職員と共に、避難所のお手伝いや被災者のこころのケアに従事しました。

あの当時、原発が爆発して大事故になり、福島だけでなく関東からも人が逃げていくような状況がありました。でも、福島で血液事業に携わる多くの人間が「赤十字の職員なんだから。自分がやるしかない」という思いを抱いていたのではないかと思います。私自身、不思議なのですが、日赤に入職したときに「人道」や紛争・災害時の赤十字活動を学ぶものの、いつもそのことを考えて仕事しているわけではないです。でも「これは赤十字にしかできないことだ」といった意識は、災害が起こってみて自然と湧き起こりました。

国から屋内退避指示の出ている原発30km圏内のいわき市や相馬市にも主要な病院があり、血液の供給を継続する必要がありました。運ばれてきた血液を原発周辺地域に届ける業務も、職員は皆、その先にある患者さんの命をつないでいくという気持ちで、続けていたと思います。

③リレーの中継:宮城県赤十字血液センター

[ 献血推進課 献血係長 木村康一さん ](当時・同センター 献血推進課)

あの地震で、宮城センターの建物は天井・壁が一部剥がれ落ち、電気・ガス・水道が寸断されました。書類が散乱し、エアコンは壁から落ち、室内はぐちゃぐちゃに。地震発生当時、センターには採血している方もいましたがケガはなく、職員を含めて人的被害が出なかったのは不幸中の幸いでした。

血液事業従事者は医療従事者と同様に、災害が起こっても業務を止めることのできないエッセンシャルワーカーです。主な職員は血液センターに残って夜通し対応しました。

建物内の片付けと血液事業の災害対応に追われる中、戻ってきた献血バスのスタッフが「10メートルの津波が来るとラジオで言っていた」と話すので耳を疑いました。

当時、宮城センターは福島や山形に供給する血液製剤も製造していました。宮城が稼働しなければ、宮城含め3県への供給が止まる。しかし献血ができない以上、製造もできません。既にある血液の保存を予備電源でしのぎ、あらたな血液の供給は他県からの支援に頼らざるを得なくなりました。

血液を必要としている医療機関とは通常の連絡が取れない状況です。電話、FAXが止まっていても、血液を待っている人がいる。翌日から車に血液をのせ、医療機関を巡回して回ることに。ただ、あの被害状況です。津波に流され、瓦礫だらけの町、道路には川のように濁流が流れ、迂回路を探してもたどり着けない病院もありました。

災害直後は、医療機関も通常の医療が行えないため、血液需要が半分まで落ちます。東日本大震災でも直後は需要が落ち、それから徐々に増えて行って、ガンの治療などに必要とされる血小板の使用は早い段階で戻りました。物資の不足などがあるなかでも、医療の現場では必死に治療を継続したのだと思います。

県として血液の製造ができなくても、県内には血液を待っている人びとがいる…。毎日、毎日、高速のインターチェンジで全国から送られてきた血液を受け取り、県内に持ち帰るとき、そして宮城センターで届いた血液を受け取るとき、私たち職員は、支援してくださる全国の皆さんへの感謝の思いでいっぱいになりました。

全国の血液センターの職員にも、感謝、そして申し訳ない気持ちでいっぱいです。自県の供給分がぎりぎりでも、東北の分として2割増しで必死に献血を集めてくれた。

オールジャパン。全国の皆さんに支えられている。それを痛感する日々でした。

震災後、1日でも早く復旧させなければと、血液センター職員は必死でしたが、宮城県内の献血ルームは採血ができないため、手の空いている職員はチームになって交替で石巻赤十字病院に支援に向かったりしていました。石巻赤十字病院は、石巻医療圏で唯一残った医療機関として極限の状況が続いていました。同じ赤十字の職員としてできることをする、オール赤十字で支え合う、という事例がそこにもありました。

実は、私の母も消息不明になりました。女川町という、大きな津波被害のあった町に1人で暮らしていたのです。今も行方不明のままです。あれほどの災害です。多くのひとが葛藤を抱えながらも、乗り越えなければと頑張っていた時です。当時は献血だけでなくさまざまな支援を全国から頂きました。水・食糧はもちろん、燃料なども届きました。皆さんのその気持に支えられ、頑張れた。本当に有難かったです。

今はコロナ禍で、全国的に血液確保が難しい状況が続いています。全国へ恩返しではないですが、困っている場所があれば1 本でも多く届けられるように頑張っていきたいと思っています。

④リレーのゴール:岩手県赤十字血液センター

[ 学術情報・供給課 供給二係長 坂本忠則さん ](当時・同センター 供給課)

地震が起きた2:46ころ、私の課は室内に2人。私と課長で大きな揺れの中で書棚を押さえました。非常時に備えて、岩手県赤十字血液センター(以下、岩手センター)のラジオ、テレビは自家発電につながっています。揺れがおさまるとテレビをつけて、津波の映像も見ました。

岩手センターの建物は多少破損した壁もありましたが大きな被害はありませんでした。地震から30分くらいたった頃でしょうか、宮城センターから連絡が入り、非常電源が作動しない、と。すぐに車2台、うち1台は私が運転して、盛岡から大量のドライアイスを仙台まで運びました。途中、サイレンを鳴らして先を急ぎましたが、まぁ車が動かない。信号も止まっているし、大渋滞です。岩手センターを出たのが午後4時、宮城センターについたのが夜9時を回っていました。通常なら多少混んでも2時間で着くのに。そこから岩手に引き返しましたが、帰りはもっと渋滞がひどくて、センターに戻れたのは朝7時近く。一睡もしていなかったのでいったん家にシャワーを浴びに帰り、妻と子ども達の無事を確認して昼にはセンターに戻りました。そこから1週間、家にはほとんど帰れませんでしたね。今でも、震災の時にお父さんいなかったね、と家族に言われます。

岩手センターに戻ってからもトラブルに見舞われました。センターでは停電してすぐに自家発電に切り替わりましたが、そのときに限って燃料の重油が1日半ぶんしかなく、あと10数時間で自家電源も止まってしまうとわかったのです。これほどの災害の中でタイムリミットまでに燃料が届くだろうか、と焦ったのを覚えています。

一般電話も不通ですから、直接業者に連絡をとることができず、携帯電話で各方面に電話を掛け続け、岩手県の行政にも頼み込んで、なんとか業者につなげてもらいました。しかし地域全体が被災して通れる道は大渋滞しているので燃料はなかなか届かない。電気が無くなったら保管している何百人分もの血液がダメになってしまいます。重油を積んだタンクローリーが到着した時は、ほんとうにあと少しで燃料が切れるというタイミング、寿命が縮みました。

岩手では沿岸地域の病院がいくつも津波に流されました。さらに夜には、海沿いの街で火が広がりました。

停電が続き電話もFAXもつながらないので、血液の届け先である病院がどういう状況かわからない。地震の翌々日から車に血液を積んで各病院への訪問を始めました。とくに被害のひどい沿岸部では、どれだけ時間がかかってもいい、とにかく必要なところに届けなくてはと車で回り、手持ちで血液を届けたときは病院関係者から、よく来てくれた!と喜ばれましたね。一方で、ある病院からは、こんな状況でも本当に血液が届くのかと聞かれ、必ず届けます!と言い切ったことも。それもすべて、全国の方が献血で支援してくれて、血液のリレーで皆が一生懸命運んでくれたからできたことです。

車の運搬ではガソリン不足も悩みでした。ガソリンも災害救助の車両優先ですから、はじめ、血液事業の車にはガソリンを入れてもらえなくて。県とも交渉し、ガソリンも入れてもらえるようになり、これで動ける、血液を運べるぞ、と安どした覚えがあります。

血液のリレーは私が担当するようになってからは古川(宮城県)インターチェンジで午前2〜3時に受け取るようになっていて、それが1カ月続きました。

関東の血液を東北に回す、ということは、関東の不足分を他の地域が補うということ。東京の羽田空港に、北海道や関西、九州から空輸で血液が届き、それを関東に分配するという方法をとっていました。全国規模の大きな血液の循環です。震災時は行政の縦割りが問題になりましたが、日赤の血液事業は横のつながりが強いので、県を越えた、大きな支え合いが地震発生直後から機能した。支援してくださる献血者のみなさんと、血液を東北に送り続けてくれる仲間たち、すべての人の支えに心から感謝しました。

南海トラフ地震など、今後も大災害が想定されています。もし東北以外の地域でそのような大災害が起こったときは、今度は東北の私たちが結束して支援できるようにしたいですね。

福島県赤十字血液センターの原町供給出張所は、東京電力第一原子力発電所から30km圏内にあり、地域住民には自主避難(屋内退避)が促されています。しかし、30km圏内でも、医療機関で待つ輸血患者さんに輸血用血液を届けないわけにはいきません(撮影は2011年4月)

2011年3月22日、灯油を献血運搬車に乗せる血液センター職員たち