博愛社を支えた大実業家・渋沢栄一と日赤創設者・佐野常民の"深い縁" コロナ禍の今、その生涯が再び脚光を浴びている、日本資本主義の父、渋沢栄一。 「公益」を重視した渋沢と「博愛」を広く世に説いた佐野、二人の出会いと興味深い関係を紐解(ひもと)きます。
新型コロナウイルスの蔓延(まんえん)により世界中の人々の生活が一変した今、逆境を切り開き世の中を変えてきた渋沢栄一の生涯に注目が集まっています。
実業界のみならず公共・福祉事業や民間外交などでも指導的な役割を果たした渋沢は、日赤の前身である博愛社時代からの支援者でした。博愛社の創設者である佐野常民が渋沢に直接協力を依頼し、明治13年に社員(会員)に加入、明治26年には現在の理事にあたる常議員になったのです。佐野と渋沢の両者の縁は、慶応3(1867)年に開かれたパリ万博での出会いにさかのぼります。当時の最先端技術や文化に触れ、帰国後は明治維新の荒波を乗り越え、それぞれの立場から日本の文明開化を支えました。
明治41(1908)年に発行された日赤の機関誌には「慈善の話」と題した渋沢の寄稿があり、「パリに行った時、パリ市民に声をかけられてチャリティバザーを初めて知った…帰国後しばらくしてから慈善事業をするきっかけになった」「慈善事業に金を出すことをもって、一種の道楽だと思っている」と書かれています。
「人助けをするにも、金が必要。金持ちはその金で何をするかが大切だ」と説いた渋沢ですが、1923年の関東大震災当時、83歳だった彼は全国規模の義援金窓口「大震災善後會」の実質的な企画者として救済活動に打ち込みました。渋沢は国民一人一人の「共感」の結集が大きな力になることを実証。それこそが佐野の赤十字運動の理念と一致するところでした。
「金はそれ自身に善悪を判別する力はない、善人がこれを持てば善(よ)くなるし、悪人がこれを持てば悪くなる」と、いかにも福祉に注力した渋沢らしい言葉が残されています。