福島で育った私たちの思い ~「東日本大震災から10年」特別企画~
日赤福島県支部が青少年赤十字活動の一環として開催している「詩・100文字提案の作品」コンクール。毎年、福島県内の小中高校生が多数応募しています。今回は、東日本大震災後に発表された作品の中から優秀作を 3つ選び、その作者に10年を振り返り、語ってもらいました。当時小・中学生だった彼らが抱く、今の思いとは。
宮林美保さん 「あの頃に戻れないからこそ、思いは静かに強くなる」
10年前の、あの震災のことを振り返るなら、まずは母に感謝を伝えたいです。
お母さん、私とお姉ちゃんを守ってくれてありがとう。軽自動車に私たち姉妹を乗せて、全町避難の指示が出た浪江町から南相馬市の小高、親戚の家、福島市と、避難先を転々としました。避難の途中、お母さんが「ごめんね」と涙を流しながら軽自動車のハンドルを握っていた、その横顔や後ろ姿を、鮮明に覚えています。お父さんが浪江町の消防士だったから、町の仕事のために一緒に逃げることができなかった。他に頼れる人もいない中、女の人が一人で11歳と9歳の娘を守っていくのは、きっと不安でつらかっただろうと思います。本当にありがとう。
あの日、地震が発生したのは金曜日の下校直前でした。母が学校に迎えに来て、小学校5年生の姉と私、3人で浪江町の避難所「ふれあいセンター」へ向かいました。そこで一晩過ごし、翌朝、全身を白い防護服に包まれた人がやって来て何かを伝えると、大人たちが「ここから避難しないといけない」と騒然となって。小学校3年生の私には何が起きているか理解できませんでした。
浪江町には農業をしていた祖父母がいて、いつでも会いたいときに会いに行けたのですが、発災の当日から別々に避難していたため、お互いに消息不明になりました。後から聞いた話では、川俣町に避難した祖父はテレビの取材を受け、カメラに向かって私と姉の名前を呼んだそうです。ナオ、ミホ、どこにいるんだ…祖父も私たちのことが心配で、必死に呼び掛けてくれたようです。その後、祖父母と連絡が取れ、福島市から会いに行きました。今でも、祖父母が作ったお米は美味しかったな、また食べたいな、と懐かしく思い出しますが、農地を失い、原発事故後は避難先を転々とした祖父母は農業をあきらめました。
福島市に避難後、ちょうど学年の切り替わりで4年生の4月から新しい学校生活がスタート。クラスメイトとは自然に打ちとけたけれど、浪江町の出身であることは、言えませんでした。最初はそれほど意識していなかったのです。どこから避難して来たのとか、聞かれることもなくって。でも、原発事故から避難して他県に移った子がいじめられたとか、福島ナンバーの車が嫌がらせされたとか、そんなニュースを見てから怖くなって。原発事故の後、全町避難した浪江町は有名になりましたから、祖父母と家族で幸せに暮らしていた町なのに、浪江のことは話したくなかった…。浪江町を離れて10年。同じ浪江小学校の同級生たちが、どう避難し、どこで暮らしているのか、その後の状況はまるで分かりません。ただ、震災から半年ほど経過した頃、浪江小で担任をしていた先生から、手紙が届いたことがあります。私があまりにも喜ぶから、母が携帯で写真を撮ってくれました。
どこにいるかも分からなかった浪江小の友達が、一緒に行った遠足の集合写真を持ってテレビに映ったのは、福島市で暮らして2年目のこと。もうすっかり福島市の生活が当たり前になっていたのに、気持ちが引き戻されたのでしょう。そのことを作文に書きました。もう帰れないから…あの頃に戻れないから…思いがより強くなる。そういうことって、ありますよね。
ずっと一緒にいた家族が、離れ離れになった。父は浪江町の地方公務員(消防署職員)なので、月に1、2回だけ福島市の私たちの家に帰りますが、ふだんは浪江で暮らしています。そして郡山に落ち着いた祖父母とは、コロナ禍でずっと会えていません。祖父母と電話で話すと、ときどき声に元気がないときがあって、とても心配になります。
浪江は良い町だったと思います。浪江でとれたお米も野菜も、美味しかった。お祭りの時は皆で協力して、どのお神輿が一番元気に声を出したかを競ったり、楽しかった。でもそれは遠い記憶で、私の中でどんどん記憶が薄れていきます。「また住みたいな、故郷に」。作文にそう書いたときの気持ちは、今ではもう、はっきりと思い出せなくなっています。
浪江は避難指示が解除されてから少しずつ住民が戻っていますが、私たちのように違う場所に根を下ろした住民が多く、今後も戻る人は少ないのではないでしょうか。ただ、そうは言っても、私の意識の奥で「ふるさとへの郷愁」は生き続けているようです。大学受験で進学先を考えた時、地方の過疎化に興味があり、地方行政のあり方を学べる科を選びました。どうしたら町や村から人がいなくなる過疎を防ぎ、地域コミュニティを活性化できるか。浪江のことを考えていたわけではないのですが、町から人がいなくなってしまうのをなんとかしたい、という思いが強くあります。ちなみに、コミュニティの絆が強い地域は、災害から立ち直る力も強く、復興が早いそうです。コミュニティのあり方は、住む人の幸せにつながり、防災力にも関係している。こういった知識を実践的に学び、地域を盛り上げ、立ち直る力をもった地域づくりに関わっていきたいと思っています。
安斎秀喜さん 「『偏見』への不安と『応援』、両方を味わった学生時代」
2011年3月11日。それは、中学の卒業式を終えて帰宅し、母と卒業祝いの携帯電話を買うために町へ向かう途中で起きました。車を運転していた母は地震を察知して急停車、僕はその助手席にいて、目の前のアスファルトに亀裂が走り、割れ目が広がって道の先まで伸びていくのを目撃しました。車を停めた場所は山沿いで、この山が土砂崩れを起こすのでは、という恐怖に襲われたのを覚えています。
電気ガス水道は止まりましたが、家も家族も無事でした。異変を感じたのは、地震の数日後。福島県の海沿いの地区から、僕たちの町につながる道、さらに内陸へと向かう道で、今まで見たこともないような大渋滞が発生し、その車列にはどこか不穏な空気が漂っていました。
福島第一原発が制御不能、高濃度放射能が拡散、というニュースが流れたのは、その大渋滞を目撃した直後。あの車列は、原発事故からの避難だったのです。すぐに家族会議が開かれ、姉(高校を卒業し4月から専門学校に進学予定)、僕、弟(小学校を卒業し中学に進学予定)の3人が、隣県の群馬県にいる親戚宅へ避難することに。これからどうなってしまうのか、両親・祖父母と離れ、心細い気持ちで過ごした1週間。放射能の数値は毎日報道されましたが、二本松市内と群馬の親戚宅の周辺は放射能の数値がほとんど変わらないことが分かり、3人それぞれに新学期の準備もあるので、自宅に帰ることになりました。
4月から福島市内の高校で、予定より少し遅れた新学期が始まり、クラブ活動で選んだのが青少年赤十字(JRC)です。震災発生直後、苦しんでいる人がたくさんいて、自分は体力も時間もあるのに助けてあげることができない…もどかしい思いを抱えていた僕には、JRCの奉仕活動は願ってもないものでした。
JRCに入部1年目、震災があった年の秋に、福島県内のJRCメンバーが100人くらい集り、福島の農産物の風評被害の払しょくのため、東京都内でPR活動をしました。僕のチームは二子玉川の駅前で福島産の梨を配付。もちろん、残留線量は測定済みです。正直、東京で福島の農産物を配ることでどんな拒絶反応があるか、配り始めるまで不安だらけでしたが…大きな声で安全性をアピールしながら梨を入れたビニールを差し出すと、予想外のことが。ほとんどの方が「応援してるよ」「頑張ってね」と、温かい言葉と共に梨を快く受け取ってくれるのです。
胸がいっぱいになりました。そしてその時の経験をもとに書いたのが、この作文です。
今、社会がコロナ禍に見舞われていますが、僕の目には震災の直後の、放射線という見えないものを恐れていた時と社会の状況が重なって見えます。
東京で梨を配った時は多くの人の応援に触れることができました。しかし高校時代にずっと感じていたのは、福島に対する社会の偏見の目と、これが将来も続くのだろうかという不安。僕は、新型コロナに感染してしまった人たちのことが心配です。感染したと周りに知られたら、家族に迷惑を掛けてしまう、感染した人だってつらいのに、恐怖の元凶のように見られてしまう…。どれほどの不安の中で過ごしていることでしょう。放射線も、新型コロナも、正しい情報だけを見て冷静に対処すれば、こんな差別は起こらないはずです。社会から、こういう偏見がなくなり、感染した人たちの気持ちが軽くなることを願っています。
震災から10年。僕は今、神奈川県内にある発達障害児の通所支援施設「スタジオそら」に勤務しています。奉仕活動をしたいと入部したJRCで、子どもや障害のある方とも接したことが、この仕事に興味を持つきっかけになりました。発達障害を持った子どもたちは、障害のない子たちが当たり前にできることが、なかなかうまくできません。しかし、成長していくにつれて「他の子ができることが、自分はできない」ということに気付き、つらい思いをします。自信を失って生きるのは苦しいことですが、逆に、できるようになったと、達成や成長を感じられるのは幸福なことです。僕は、子どもと一緒に達成感を味わい、その子が幸せな気持ちになれることが嬉しい。
この仕事は、一人一人タイプの違う子たちの、それぞれに必要なことに「気づき」「考える」ことが大切。それって、まさにJRCで繰り返しやっていたことでした。ある子どもとトレーニングの一環として「果樹園ゲーム」をやった時(それは“動物が来る前に果実を収穫しよう”というゲームなのですが)、ゲームの目的である「動物が来る前に果実を収穫すること」には成功するけれど、守った果実を動物にあげる、そんな独自のルールでゲームを進める子がいました。その子は、「動物に果実を食べさせてあげたい」という思いで、むしろ喜んで動物に果実を与えます。…それはゲームのルールからは外れていることかもしれません。でも、結果としてその子が幸せになるなら、それも正解だなと。社会においても大切なヒントが、そこにはある気がします。僕も日々、学ばせてもらっています。
日下輔さん 「不便な生活があったからこそ、人々の豊かさを願うんです」
福島県の内陸にある福島市で育った僕は、中学2年のあの日まで、津波のことは考えたこともありませんでした。だから、岩手・宮城・福島の沿岸部を襲った津波の映像はショックでした。そして、あの原発事故です。…これまで感じたことのない恐怖を覚えました。
僕の両親は高校教諭で、福島市内の避難所の運営をするために原発事故発生後も福島に残り、僕と姉は祖母と函館の親戚の家に避難しました。
函館で、福島の放射線量の報道を毎日見ていました。福島市内の数値は常に少し高めで、市内に残っている両親のことが心配でした。
福島市に戻ったのは僕と姉の新学期が始まるから。放射能の数値が高く、あまり外を出歩かないほうがいいと言われている地域に戻っても大丈夫なのか、不安の中で始まった新しい生活。福島市は、夏が暑いんです。盆地で熱が溜まりやすく、日中35度を超える日が続くことも。そんな中、放射性物質を吸い込まないよう、今のコロナ禍の生活と同様にマスクを着用、さらに「なるべく長袖長ズボン」。僕の通う公立中学校には教室に冷房設備がなく、蒸し風呂のように暑いのに窓を閉め、教室には扇風機が1台設置されただけ。中学3年で受験に向けて大切な時期なのに、暑さで集中力がなくなります。他にも、日常生活全般に不便やストレスを感じていました。飲み水や料理に使う水はペットボトルを買っていましたが、シャワーで浴びる水、洗濯する水にも不安があり、外に洗濯物を干せないなど、常に放射線を気にする。こうすれば安全、という「情報」だけがよりどころで、放射性物質は見えないので、いつでも、どこでも、神経を尖らせていました。
高校を卒業して大学に進学するために福島を離れました。東京で一人暮らしをし、放射線のことを意識することもなくなり、福島での日々はどこか遠い過去になっていきましたが、ある時、「原発事故のあった福島」を鮮明に思い出すことになります。
大学在学中に1年間アメリカに留学したのです。場所はアジア系外国人や留学生も多いロサンゼルス。オープンな性格のアメリカ人に日本のどこから来たの?と挨拶がわりに聞かれ、「フクシマ」と答えると、相手は「…それは大変だったね!」と真剣に心配してくれるのです。ロサンゼルスで出会った人たちは「福島で暮らす人々は原発事故でつらい経験をした」と考え、福島という地名を記憶している方が多かったですね。日本の中で東京の次くらいにメジャーな地名なのではないでしょうか。世界の人々の記憶に焼き付くぐらいの苦難が、福島には降りかかったのだ…と、あらためて、複雑な思いで故郷のことを考えました。
就職活動で志望したのは「人々の生活を豊かにすることに関われる」企業。それはやはり、見えないものへの恐れに支配され、我慢の日々を送っていた経験があるからだと思います。そして、段ボールなど梱包資材の製造販売を全国で展開しているレンゴー(株)に就職しました。今や段ボールはどこの家にもあります。通販で買い物をしたら段ボールで届きます。さらに段ボールは、災害時に、避難生活を支えるものになる。段ボールベッドです。僕の会社は全国に工場があるので、災害が起きたら被災地の近くの工場から段ボールベッドの支援ができ、これまでの災害でもその実績があります。…これが、福島という被災地で育ち、福島県民が笑顔になれる未来を願った僕の出会った、日常も非常時も人の役に立てる仕事です。