【赤十字運動月間】 赤十字のココが推し! 赤十字活動の魅力を職員が紹介

日赤は、「人間のいのちと健康、尊厳を守る」ために、下記の事業を行っています。では実際に、どんな人たちが、どんな思いで活動しているのでしょうか?今回は、異なる部署で活躍する3人の日赤職員にインタビューし、赤十字の活動で印象に残った出来事、「赤十字のココがすごい!」と思えるところなど、それぞれの熱い思いを聞きました。皆さまに、赤十字の活動を少しでも身近に考えていただくきっかけになれば幸いです。

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元日の地震で被災者となり、
一つの目標のために結集していく
赤十字の強さ・大きさを実感


●お話を聞いた人
日本赤十字社 石川県支部
森岡誠人(もりおかまこと)さん


IMG_morioka.jpg 金沢赤十字病院で26年間、看護師として働き、3年前に日赤石川県支部の職員になりました。「赤十字」の職員であることを意識するきっかけとなったのは、2011年の東日本大震災です。私は、金沢赤十字病院の救護班第一班として、発災翌日に病院を出発。移動に1日かかって車中泊もし、ようやくたどり着いた被災地には想像を絶する光景が…。出発前、病院の先輩から「自分たちはスーパーマンではないから」と声を掛けられていました。被災地で活動してみて、その言葉の意図を理解しました。「自分は役に立たなかった…」という不全感で落ち込まないように、という経験者のアドバイスだったのです。あの混乱の中、看護師としてもっとできることがあったのでは、と、今でも思い出しては自問自答します。その経験から「被災地で活動をする人たちが力を発揮できるように、活動全体を援護する業務に携わりたい」という思いを強くしました。

 今年の元日に発生した能登半島地震では私自身が被災者となり、日頃から幅広く防災知識を得ておく大切さや、赤十字の対応の早さと支援の大きさを感じています。発災時は震度7を観測した石川県志賀町の実家で過ごしていました。家は倒壊を免れましたが、地域全体がひどい状況だったので私の両親や息子たちと指定の避難所へ。しかし、そこも被災し避難できる状況ではなく、すぐに周りの人々に声をかけ、避難生活で必要となる物資をリヤカーに積み、廃校となった高台の学校に向かいました。冷静に判断し、迷わず行動できたのは赤十字防災セミナーで何度も被災のシミュレーションをしていたおかげです。翌2日に自宅のある金沢に戻り、3日の朝に支部へ出社すると、支部内にはすでにたくさんの人が。石川県外、東京からも赤十字の仲間が駆けつけ、支援計画を立て、役割分担して活動していました。これが、赤十字の強みです。東日本大震災のときもそうでした。いつ何時起こるかわからない災害に向けて訓練を重ね、いざ発災すると、全国の赤十字が瞬時に団結し、支援の態勢を組んでぞくぞくと被災地に向かいます。そして重要なポイントは被災地の意向をくんで活動すること。全国から来てくれた救護班も、こころのケア班も赤十字ボランティアも、赤十字の理念の下、同じ方向を向き、被災地の声に耳を傾け、活動の主導を被災県の支部に託してサポートしてくれます。被災地の職員として、感謝しかありません。赤十字の理念を実践するとは、こういうことなんだと、実感しています。

≪写真左から≫2011年3月、東日本大震災の被災地で救護班として避難者の話を聞く森岡さん(右から2人目)/森岡さんは幼児安全法などの講習の講師も務める。イベントでも練習用の人形を用いて簡単な講習を行う/能登半島地震後、40 0 0平方メートルが焼失した輪島朝市通りで手を合わせる森岡さん(写真右)


ストリートチルドレンに
胸を痛めた少女時代
人を救う赤十字の活動に参加できる喜び


●お話を聞いた人
日本赤十字社 国際部
三亀恭子(みききょうこ)さん


miki.jpg 私は、小学校高学年の3年間、父の仕事の関係でインドネシアのジャカルタで過ごしました。当時のジャカルタは貧富の差が激しく、自分と同じ年頃の子どもが道端で物を売ったり、物乞いをしたりする姿がありました。そのようにストリートチルドレンがいる光景に衝撃を受け、世界の貧困格差をなくすにはどうしたらいいかと考えるようになりました。帰国後、父が教員として青少年赤十字の活動に携わったことで赤十字の存在を知り、「国際的な社会貢献活動ができるかもしれない」と思ったのが、日赤に入社した理由です。

 全国に7つある赤十字看護大学の一つ、日本赤十字九州国際看護大学での6年間の勤務を経て、4年前から日赤本社国際部に配属。看護大時代には、同じ九州で発生した熊本地震の被災地に学生たちと赴き、ボランティア活動を実施。赤十字の看護大の学生は、災害支援への関心が高く、熱心な生徒が多いことに感銘を受けました。国際部に配属されてから、改めて、世界191社ある赤十字・赤新月社の活動範囲の広さを感じています。世界のどこで災害が起きても、その土地の被災者に寄り添った活動ができるのは、そこに赤十字の仲間がいるから。この4月からは、マレーシアのクアラルンプールにあるIFRC(※)アジア太平洋地域事務所に出向し、アジア大洋州で「ユース」と言われる若い世代と、赤十字の「人道」を広めるために活動しています。赤十字は人を救うための“運動体”。力を合わせて活動する赤十字の魅力をかみしめる日々です。

※IFRC=国際赤十字・赤新月社連盟

≪写真左から≫「NHK海外たすけあい」CMに出演した三亀さん/海外の赤十字ユースの研修に参加(後列右から5人目)


戦争の加害者でもあり、
被害者でもある人間。
その救いとなり、
よりどころにもなる、赤十字


●お話を聞いた人
赤十字情報プラザ
大西智子(おおにしともこ)さん


oonishi.jpg 大学4年のとき、卒論のための資料閲覧を目的に、日赤本社の図書資料室を訪ねたのが、赤十字との出会い。幾度か足を運ぶうちに、当時の司書の方に「入社試験を受けてみたら?」と後押しされ、私の赤十字人生が始まりました。
 今年で勤続30年を迎えましたが、最も多くの時間を過ごしたのが秘書課です。主に、近衞忠煇副社長(現・名誉社長)をサポートする役目でした。近衞名誉社長は、アジア人初のIFRC会長を務め、「人道の巨人」と呼ばれた方です。この5月に発売になる本*の中では、これまで語られてこなかった生い立ちや、ご家族と戦争に関することにも触れられています。近衞名誉社長の足掛け2年半に及ぶロングインタビューを補佐し、赤十字人としての軌跡を記録するお手伝いができたことは貴重な経験でした。

 今、赤十字情報プラザの管理者として、日赤の数々の記録を預かる立場となり、改めて、それを発信する責務を感じています。ここにあるのは、それぞれの時代で命と向き合った活動の最先端の“証拠”で、いわば、タイムマシーンのようなもの。
 私たち日本人は、過去の戦争で、加害者・被害者、両方の経験をしています。私の身内にも戦死者や、兵士として戦地に赴きトラウマになるほどの悲惨な経験をした者、空襲で家も財産も焼かれ、赤ちゃんを背負い、大切な着物の帯一つを持って命からがら逃げた者がいました。私自身、海外で現地の方から戦争加害者に向ける蔑称で呼ばれたことがあり、若い頃は加害者意識など持っていなかったので、それはかなりショックな体験でした。

 私たち人間は、長い歴史の中で戦争を繰り返してきました。今日の加害者は明日の被害者かもしれない…、まさに表裏一体です。そんな人間にとって、赤十字は、よりどころ、そして、救いなのではと、私は思っています。時代が移り変わっても「苦しんでいる人を救いたい」という普遍の思いの結実、その大きな存在の中に身を置けることの幸せを、感じずにはいられません。

日赤本社内にある「赤十字情報プラザ」で、来館者に展示の説明を行う大西さん(右)