日本赤十字社を創立 佐野常民
佐賀に生まれ、「博愛社」を設立
佐野常民は、文政5年(1822年)佐賀藩士として佐賀郡早津江(現在の川副町)に生まれ、天保3年(1832年)藩医佐野常徴(孺仙)の養子となり、藩主から「栄壽」の名を賜った。藩校弘道館に学び、その後江戸の古賀侗庵、京都の広瀬元恭、大阪の緒方洪庵、江戸の伊東玄朴等の塾で漢学、医学、蘭学、物理学、化学、外科術、冶金術等を修め、長崎海軍伝習所で航海術、造艦術、砲術などを学んだ。嘉永6年(1853年)、佐賀藩精煉方の主任を命ぜられ大砲の鋳造に精励した。名前も「榮壽左衞門」と改めた。安政2年(1855年)国産初の蒸気機関車と蒸気船の雛型を完成させ、藩主直正の御前で試運転を行なった。安政5年(1858年)佐賀郡三重津(現川副町、諸富町)の佐賀藩三重津海軍所で海軍伝習を開始した。慶応3年(1867年)藩命によりパリ万国博覧会に参加し、有田焼を中心に地元物産の展示販売を行なうとともに、オランダに軍艦を注文した。明治政府に召されて兵部省では海軍の創設に尽力、工部省では洋式灯台の建設に尽力した。明治6年、ウィーンで開催された万国博覧会に、明治政府の派遣団責任者として参加した。この時は、オーストリアとイタリアの弁理公使の立場を兼ねての参加であった。佐野常民の発案により、種々の分野から技術集団を万博に参加させ、諸外国の先進技術を習得させた。このときの参加者たちが日本の近代化に大いに活躍した。明治10年「西南の役」が起こるや、同じ元老院議官の大給 恒らとともに「敵味方の区別無く負傷者を救護する」日本赤十字社の前身「博愛社」を創立した。明治12年、日本美術協会の前身「龍池会」を創設し、会頭に就任した。明治16年、大日本私立衛生会会頭に就任した。明治19年日本が万国赤十字条約に加盟、明治20年「博愛社」を「日本赤十字社」と改称し、初代社長に就任した。明治21年、磐梯山噴火災害に救護班を派遣し、国内初の平時救護活動となった。明治24年、濃尾大震災に救護班を派遣した。明治27年、日清戦争に際し、戦時救護のための救護班を派遣した。明治32年、病院船「博愛丸」「弘済丸」が完成した。明治35年10月、日本赤十字社創立25周年式典において、皇族以外に例のない「名誉社員」におされた。12月7日、東京麹町区三年町の自宅で逝去。青山墓地に埋葬された。80歳。
略年譜
元号(西暦) | 年齢 | 事項 |
---|---|---|
文政5年(1822) | 0歳 | 12月28日佐賀郡早津江で佐賀藩士下村充贇(みつよし)の五男として生まれる。幼名 鱗三郎。 |
4年(1833) | 11歳 | 親戚で藩医の佐野常徴(孺仙)の養子となり、旧藩主齊直から榮壽の名を賜る。 |
6年(1835) | 13歳 | 弘道館内生に入学。 |
9年(1838) | 16歳 | 江戸で古賀侗庵(とうあん)に入門。 |
10年(1839) | 17歳 | 佐賀に帰り、松尾塾で外科術を、弘道館で一般医学をおさめる。 |
13年(1842) | 20歳 | 駒子と結婚。 |
弘化元年(1844) | 22歳 | 佐賀藩、火術方を設け、砲術研究を始める。 |
3年(1846) | 24歳 | 京都で広瀬元恭の塾に入門、蘭学・医学を学ぶ。 |
嘉永元年(1848) | 26歳 | 大阪で緒方洪庵の塾に入門。 |
3年(1850) | 28歳 | 江戸に転学、伊東玄朴の塾 象先堂(しょうせんどう)に入門。 佐賀藩、築地(ついぢ)に反射炉を建設。翌年、大砲鋳造に成功。 |
4年(1851) | 29歳 | 京都から科学者四人(中村奇輔、石黒寛二、田中近江・儀右衛門父子)を伴い、年末に帰藩。 |
5年(1852) | 30歳 | 長崎で塾を開く。11月、佐賀藩、精煉方(せいれんかた)を設置、佐野に主任を命ずる。 |
6年(1853) | 31歳 | 精煉方頭人(主任)となる。榮壽左衛門と改める。 ペリー、黒船4隻を率い浦賀に来航。 幕府、諸大名に品川台場の築造を命じる。 幕府、大砲50門を佐賀藩に注文、多布施川沿い「公儀石火矢鋳立方(こうぎいしびやいたてかた)を設置、反射炉建設。 幕府に36ポンド、24ポンド砲各25門納入。品川台場に設置。鉄製150ポンド砲3門献上。 |
安政2年(1855) | 33歳 | 6月、長崎で海軍伝習開始(オランダ国王、スームピング号を幕府に献上)。8月、国産初の蒸気船・蒸気機関車雛型を完成。 |
4年(1857) | 35歳 | 常民、佐賀藩海軍創設建白書を藩主鍋島直正に提出。 10月、オランダから初購入の飛雲丸の船将となる。 11月、晨風丸(しんぷうまる)打建式。 |
5年(1858) | 36歳 | 三重津に船手稽古所(ふなてけいこしょ)を設置、海軍伝習を開始。晨風丸進水。 10月、オランダから初の蒸気軍船電流丸を購入。 |
6年(1859) | 37歳 | 長崎海軍伝習所閉鎖。 |
万延元年(1860) | 38歳 | 佐賀藩が幕府から預かった観光丸(スームビング号)の船将となる。 |
文久元年(1861) | 39歳 | 三重津に汽鑵(きかん)製造所創設。4月、海軍取調方附役となる。 |
3年(1863) | 41歳 | 佐賀藩初の線条砲を試作。三重津にて幕府注文の蒸気機関完成。 |
慶応元年(1865) | 43歳 | 三重津造船所で初の国産蒸気船凌風丸(りょうふうまる)が完成。 |
2年(1866) | 44歳 | 佐賀藩蒸気鉄船皐月丸(さつきまる)購入。 |
3年(1867) | 45歳 | パリ万国博参加のため3月渡欧(佐野常民・小出千之助・野中元右衛門・深川長右衛門・藤山文一の5名が参加)。 |
明治元年(1868) | 46歳 | 鳥羽・伏見の戦いから戊辰戦争起こる。春、帰国。 藩の兵制改革を上申。 |
2年(1869) | 47歳 | 大村益次郎と日本海軍創設を建策。10月、築地(つきぢ)に海軍操練所設立。 |
3年(1870) | 48歳 | 兵部省に入り、海軍をイギリス式に決定。10月解任。12月、工部省出仕。 |
4年(1871) | 49歳 | 旧藩主鍋島直正歿。 |
6年(1873) | 51歳 | ウィーン万博事務副総裁として参加のため渡欧。 |
7年(1874) | 52歳 | 佐賀の乱起こる。7月、帰国。 |
8年(1875) | 53歳 | 元老院議官となる。 |
10年(1877) | 55歳 | 2月、西南戦争始まる。5月3日、大給恒(おぎゅうゆずる)らと博愛社を創立の許可を得た。 8月、第1回内国勧業博覧会を開催。 |
11年(1878) | 56歳 | 博愛社副総長となる。 |
12年(1879) | 57歳 | 美術団体龍池会をおこし、会頭となる。 |
13年(1880) | 58歳 | 2月28日、大蔵卿となる。6月、内国勧業博覧会副総裁となる。 |
14年(1881) | 59歳 | 10月、明治十四年の政変で大蔵卿辞任。元老院副議長に就任。 |
15年(1882) | 60歳 | 元老院議長となる。 |
18年(1885) | 63歳 | 宮中顧問官となる。博愛社本社を建設。 |
19年(1886) | 64歳 | 11月15日、政府が万国赤十字条約加盟を発布。 |
20年(1887) | 65歳 | 5月20日、博愛社を日本赤十字社と改称、初代社長となる。華族に列せられ、子爵(ししゃく)を授けられる。 |
21年(1888) | 66歳 | 枢密顧問官となる。 |
25年(1892) | 70歳 | 日赤中央病院建設。7月14日、農商務大臣となる。 8月8日辞任。 |
27年(1894) | 72歳 | 日清戦争に救護班を派遣。 |
28年(1895) | 73歳 | 伯爵を授けられる。 |
32年(1899) | 77歳 | 病院船博愛丸・弘済丸を完成。 |
34年(1901) | 79歳 | 日赤本社に佐野常民の銅像建つ。 |
35年(1902) | 80歳 | 1月、駒子夫人歿。10月、日赤創立25周年記念式典で名誉社員となる。12月7日、東京・三年町の自宅で歿。 |