特別企画
万博と赤十字~日赤発祥の原点は万博にあり~
幕末の1867(慶応3)年、パリ市街にちょんまげ帯刀姿の日本人の一行が現れました。彼らが向かった先は、第2回パリ万国博覧会の会場。現在のシャン・ド・マルス公園の広大な敷地で、当時はまだエッフェル塔はありませんでした。ヨーロッパ各国の王や諸侯をはじめ、要人や商人が集うこの地に、世界の最先端技術や文化が展示されました。中には、スイスで誕生したばかりの赤十字のパビリオンもあり、赤十字と日本人の運命の出会いの場となります。赤十字の生みの親であるアンリー・デュナンも万博会場を訪れていましたので、日本人の一行とすれ違ったかも知れません。
その6年後の1873(明治6)年には、明治政府の代表団がウィーン万国博覧会に日本館を設置しました。現在のウィーンの中心部にあたるプラーター公園で、ドナウ川に沿った横長の広大な地にヨーロッパ各国が最先端の展示を行ったのです。中には、軍装備や負傷兵救護のための病院列車や救急車も展示されました。オーストリア、フランス、イタリア、イギリス、ベルギーなどが展示した器材や乗り物の多くには、赤十字マークが付されたので、会場のあらゆる場所に赤十字パビリオンが設けられたように見えるほどでした。日本を含む世界中から万博会場を訪れた人々は、赤十字が数年の間に各国に広がり、発展を遂げた様子を目の当たりにしたのです。
幕末から明治にかけて、パリやウィーンを訪れた日本人が、日本に赤十字をもたらすまでにいったい何があったのか。日本赤十字社発祥の原点をふり返ります。
注目ポイント
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スイスの青年実業家であったアンリー・デュナンは、1862(文久2)年『ソルフェリーノの思い出』を著し、戦時に敵味方の別なく命を救うことを目的とした、篤志による国際的な救護団体の創設を訴えました。この1冊の本はヨーロッパ各国で大きな反響を呼び、1863(文久3)年に五人委員会(のちの赤十字国際委員会:ICRC)の誕生につながります。
同年にジュネーブで開催した国際会議には、ヨーロッパの16か国が集い救護組織の活動を保護するための赤十字規約が決議され、翌1864(文久4)年ジュネーブ条約(赤十字条約、国際人道法とも呼ばれる)が調印されました。五人委員会は、いかに多くの国にジュネーブ条約に参加してもらうか、という課題に直面し、フランス赤十字社等の協力を得て、1867(慶応3)年の第2回パリ万国博覧会への出展を実現します。
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『ソルフェリーノの思い出』出版から5年後、1867(慶応3)年にパリ万国博覧会が開催されました。広い会場の一角に、フランス赤十字社が中心となって、篤志(ボランティア)や宗教、福祉などの十数団体が参加し、救急車や担架、義足など戦争負傷者の救護に使われる資器材が数多く展示されました。その中に、国際赤十字の展示もありました。各国の要人がこれらの展示を通じて、敵味方の区別なく救護するための画期的なしくみや手段ができたことを知ると評判が広がり、国際赤十字は万博のグランプリを受賞しました。
また、万博開催にあわせ、第1回赤十字国際会議もパリで開催され、戦時救護の実践方法やジュネーブ条約の改訂の必要性が議論されました。
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1867(慶応3)年4月からはじまったパリ万博会場に、ちょんまげ帯刀姿の佐野常民がいました。佐野は、敵味方の区別なく救護するための国際条約と活動のしくみに衝撃を受けました。
佐野だけでなく、当時幕府からパリ万博に派遣された日本人の中にも、赤十字のしくみと実践にふれた日本人がいました。その1人である医者の高松凌雲も、この出会いがきっかけで負傷兵の救護に関する最先端の情報に接したのです。その経験が、戊辰戦争、最後の戦いである箱館戦争(1868-9)で行った、敵味方を区別しない負傷者救護につながったとされています。
のちに実業家として活躍し、日本赤十字社の支援者となった渋沢栄一も現地の病院を視察し、負傷軍人を看護する施設などの様子を見学したことが記録に残っています。
※德川民部大輔殿殿下(とくがわみんぶたいふどのでんか)とは、徳川慶喜の弟、昭武のこと
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1873(明治6)年開催のウィーン万国博覧会では、国際赤十字はオーストリアの篤志団体と共に出展を目指しました。しかし、手続きの不備と時間制限のため万博協会から不許可となります。
一方、万博会場には戦時救護に関する展示エリアが設けられ、ヨーロッパ各国が外科医療器材や救急車、陸軍衛生のバラック(救護所)、衛生兵の携帯品、病院列車の図解や負傷兵の効果的な運搬法などを展示しました。その多くに赤十字マークが付されていたことから、結果的に、多くの赤十字パビリオンが出展されたように見えるほどでした。
この背景には、赤十字誕生のきっかけとなったイタリア統一戦争以後も、アメリカの南北戦争、ヨーロッパの普仏戦争など世界各地で戦争が絶え間なく起こり、大量の戦死者・戦傷病者が発生し続けていたことがありました。各国は赤十字に賛同し、ジュネーブ条約に加入した先進国の証として、最先端の救護資器材を競うように披露したのです。
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1873(明治6)年開催のウィーン万国博覧会に明治政府から事務副総裁として派遣された佐野常民は、約100人の官員、通訳、技術伝習生などを引き連れて参加しました。帰国後、渡航先で見聞した最先端技術を報告書にまとめ、政府に提出。日本の近代化に貢献します。
佐野はウィーン万博で、フランス、オーストリア、ベルギー、イタリア、イギリス、アメリカ、ノルウェー、ハンガリー、スペイン、ロシア、スウェーデンのほか、多くの軍に関する展示品の中に、赤十字マークが反映されているのを見て、ヨーロッパにおける赤十字運動の急速な発展を実感しました。この思いは、のちに常民が語った「文明開化といえば人はみな法律や精密な機械ができることをいうが、赤十字のような活動が盛んになることをもって文明開化の証としたい」(1882(明治15)年博愛社社員総会演説)の言葉に表れています。
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1873(明治6)年6月3日、各国を訪問中の岩倉使節団がウィーンに到着。佐野常民が出迎え、4日間にわたり万博を視察しました。使節団の一員、久米邦武は『米欧回覧実記』に、多くの医療品や医療器具の展示を見たと記しています。
万博を見た後、使節団はスイスに立ち寄り、元駐日スイス大使のエメ・アンベールの紹介で赤十字国際委員会(ICRC)総裁ギュスタブ・モアニエと面会。スイス側の記録には、岩倉具視と伊藤博文が熱心に質問したことや、岩倉が「日本は条約の遵守に不慣れで、ジュネーブ条約加入は時期尚早」「相応レベルの軍衛生組織の不備」「公の救護活動を支えるボランティアが存在しない」という主旨を語ったことが記されています。当時ヨーロッパでは日本は野蛮な国とみなされ、赤十字を理解できると期待されていませんでしたが、モアニエは岩倉らの見識の高さに気づき、日本がジュネーブ条約に加入する日が来ると考え、連絡を取り合うことを約束しました。
※エメ・アンベール…幕末に全権公使として来日。後にスイスの大統領になった人物。
※ギュスタブ・モアニエ…赤十字国際委員会の総裁で、前身五人委員会の一人。ジュネーブ条約の生みの親。
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パリ万博の最中、日本では幕府が倒れ、戊辰戦争が勃発。多くの戦死者が出ました。ウィーン万博の4年後の1877(明治10)年2月には西南戦争も勃発します。西洋医学を学んだ人々の努力により、明治政府は8000人の負傷兵を収容する大坂陸軍臨時病院を同年4月に開設するも、救いの手が届かず、無残な死を遂げる若者が後を絶ちません。
同年3月、岩倉具視は太政大臣の三条實美と共に負傷者救護のための金銭や、包帯の材料となる綿撒糸(ガーゼ)の寄付を華族全員に呼びかけました。なかでも元老院議官の大給恒を筆頭とする松平家の人々が熱心に協力。結果、現金1万円以上、綿撒糸約1500kg分、包帯1万4000巻が集まり、陸海軍に寄付しました。
同3月末には、天皇が負傷兵を見舞い、救護物資を下賜しました。皇后も手作りの包帯を天皇の物資に添えて「賊にも使いしめよ」と命じます。それに続くように、佐野常民と大給恒がそれぞれ救護組織立上げについて岩倉に相談を持ち掛けます。とくに岩倉と佐野は万博を通じて知った「赤十字」を意識していたと考えられます。
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西南戦争中、軍の衛生組織が発展。篤志が集い、岩倉がモアニエから学んだ赤十字誕生に必要な要素が整いつつありました。
1877(明治10)年4月、佐野常民と大給恒が、岩倉右大臣に対して救護団体「博愛社」の設立を請願。佐野はその翌日には休暇届を出して戦地に赴こうとしますが、出張扱いに変更されます。
一方、岩倉は陸軍卿(大臣)山縣有朋に、受け取った請願の可否について照会します。山縣の代理として対応した西郷従道(隆盛の弟)は、請願を却下すべきと回答。その理由は「俘虜の負傷者治療は、地方の軍と詮議しておく必要がある」「結社は善良であるが、平時によく考え、あらかじめ整備するのが良い」という主旨でした。そのように応じざるを得なかった西郷の心境は、察するに余りあります。
同年5月、熊本に赴いた佐野は、政府軍の征討総督有栖川宮熾仁親王への直訴が叶い、博愛社設立は即承認されました。「救いたい」と願った岩倉をはじめとする多くの人の思いが、佐野の志を支えたことが垣間見えます。
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西南戦争が終わると、日本も一日も早く国際赤十字の一員に、という機運が高まりました。そのためには、明治政府のジュネーブ条約加入が必須条件でした。
博愛社は1882(明治15)年、明治政府に対してジュネーブ条約加入を促進することを社員総会で決議しました。
その後、軍医総監の橋本綱常、薬学者の柴田承桂、アレクサンダー・シーボルトらにヨーロッパの赤十字事情や、条約加入の手続きについて調査を依頼。さらに、ICRC総裁モアニエから助言を得て調査報告をまとめ、1884(明治17)年12月、ジュネーブ条約加入の建議書を政府に提出しました。
政府は1886(明治19)年11月15日、勅令で条約加入を公布。翌1887(明治20)年5月、博愛社は日本赤十字社と改称し、9月2日に晴れて国際赤十字の一員となりました。
*アレクサンダー・シーボルト:フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの長男。パリ万博とウィーン万博に日本から派遣。西南戦争時、岩倉具視にヨーロッパの負傷者救護事情を訴えていた。
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150年以上前、いかなる状況下でも人道的な行動をとることを、万博を通じて世界に発信した人々がいました。それを幕末から明治初期に生きた日本人が受けとめ、日本に赤十字をもたらしたのです。
赤十字の創始者アンリー・デュナンは晩年、「現代文明進歩は、とりわけ最新の破壊兵器の発明の中に存在するように思われます」と述べました。
さらに「革命や無政府状態が生じ、新たな専制政治に続いて巨大な戦争が起こり、おそらくはすべての者が不幸になるでしょう」、「その際、本当の敵は隣国ではなく、冷淡、悲惨、無知、習慣、迷信、偏見です」という覚え書きも残しています。
ウクライナ、ガザ、その他多くの場所で、戦争や紛争による犠牲者を目の当たりにし続ける私たちは今、先人の言葉をどう受け止め、行動するのか。
赤十字と万博は時を超えて、救いたいという思いでつながっています。
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