特別企画
感染症と赤十字~治療と予防の歴史~
紀元前の古代ギリシャ時代、医学者ヒポクラテスが著した書には、感染症と思われる記述があります。当時は風土病だと考えられていました。人類は昔から感染症に苦しめられ、特に戦争や災害においては、感染症が直接の死因となる事例が多いことが歴史的に証明されています。
天然痘、ペスト、麻しん、腸チフス、コレラ、マラリア、梅毒、ジフテリア、インフルエンザ、HIV/エイズ、鳥インフルエンザ、エボラ出血熱、そして新型コロナウイルス感染症など。日本赤十字社は罹患者の治療とともに、予防対策にも力を入れてきました。
日赤が最初に感染症の治療と予防に取り組んだのは、前身の博愛社が活動を開始した、西南戦争(1877年)の救護所でした。日赤の歴史は、感染症との闘いと言っても過言ではありません。
この特別企画では、日赤がどのようにして感染症に苦しむ人々に寄り添ってきたのかを伝える所蔵史料をご紹介します。
注目ポイント
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「空気の清浄、衣服の清潔に注意!」
1877(明治10)年に西南戦争での救護が始まると、博愛社の創設者・佐野常民は東京で資金や物資の調達に奔走しながら、長崎の救護所で活動するスタッフに向けて、感染症対策として換気や清潔な衣服を徹底するよう指示する電報を送っています。戦場ではコレラ感染が拡大しましたが、博愛社はコレラの患者を出さずに済みました。
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1907(明治40)年の赤十字国際会議で「国際赤十字が結核の予防撲滅に参加すること」が決議されると、日赤も多くの若者が犠牲となっていた結核を撲滅すべく1911(明治44)年から本格的な結核予防撲滅事業に取り組みます。
日赤は結核専門の病院を錦江(鹿児島)、今津(福岡)、小野田(山口)、糸崎(広島)、小川(埼玉)、伊達(北海道)、阿武山(大阪)、八事(愛知)などの各地に開設しました。後に特効薬が続々と開発されるにつれ、結核の死亡率が下がり、結核対策の事業は廃止、一般の医療業務に含まれました。当時の日赤結核病院の多くは、今の赤十字病院に発展しました。
(博物館明治村所蔵・日本赤十字豊田看護大学管理)
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かつて結核は死亡率が高く、最も恐れられた病気の一つでした。1907(明治40)年の第8回赤十字国際会議で、「国際赤十字が結核の予防撲滅に参加すること」が決議されました。
日赤はすでに世界に先駆けて、感染症治療や予防を行っていましたので、1911(明治44)年、北里柴三郎に起草を依頼して作った結核予防のための英文冊子を第9回赤十字国際会議で配布。日本のノウハウを広く世界に発信し、姉妹社の結核対策を後押ししました。同冊子の日本語版は6万部が国内で配布されました。
(博物館明治村所蔵・日本赤十字豊田看護大学管理)
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1920(大正9)年、ロシア革命後の混乱に巻き込まれ、親を失ったポーランド人の子どもたちが極寒の地シベリアに取り残されます。ウラジオストクのポーランド人有志が孤児を母国に帰そうと努力しましたが、万策尽きて日本に協力を求めました。
外務省の要請を受け、日赤は1920(大正9)年、孤児たちの受け入れを開始。初回は東京で375人、2回目は1922(大正11)年に大阪で390人を収容しました。福井・敦賀港から入国した時は栄養不良でやせ細り、哀れな状態でした。1921(大正10)年春、東京で腸チフスが流行すると、孤児たちにも感染が拡大。医療スタッフによる献身的な看護と、ボランティア等の愛情を受けた子どもたちは回復し、健康を取り戻します。そして無事、全員を母国ポーランドに帰還させることができました。
その一方で、孤児たちに愛情を注いだ日赤看護婦の1人、松澤フミは子どもたちとの接触感染により腸チフスで亡くなりました。
(博物館明治村所蔵・日本赤十字豊田看護大学管理)
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現在、保健師になるには看護師免許に加え、所定の養成課程を修了し、保健師国家試験に合格する必要があります。看護師の仕事が病気やけがの治療を目的としたものであるのに対し、保健師の仕事は病気やけがを未然に防ぐ「予防医療」が主となり、感染症の予防を含む公衆衛生もその一つです。
今から約100年前、1921(大正10)年の第10回赤十字国際会議の決議に基づいて、各国赤十字社は公衆衛生事業を推進することとなり、日赤でも公衆衛生看護事業に従事する優れた看護婦の育成を目的として、社会看護婦の専門教育を行うことを決定しました。1928(昭和3)年2月に「日本赤十字社社会看護婦養成規則」を制定し、同年10月に本社病院で1年間の教育を開始。日本の保健師育成の先駆けをなすものでした。
養成所の卒業写真には、共に学んだ日赤病院の幹部候補生も一緒に写っています。
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1923(大正12)年9月1日、関東大震災が発生しました。日赤がまとめた「救護誌」や「社史稿」によると、本社が外壁などを残してほとんど全焼した中、日赤は51カ所の救護所に各県からの医療救護班を動員し、昼夜の別なく救護した患者総数は延べ206万人余り。
焼失地域の深川、浅草、京橋、麻布、根岸、東神奈川に臨時病院を開設しました。さらに、まん延の兆候が見られた赤痢や腸チフスが爆発的に拡大することを未然に防ぐため、本社の中央病院と東神奈川病院に伝染病院を付設し、加えて須崎と板橋の2カ所に臨時伝染病院を建て、患者を収容しました。東京府下で赤痢2500人、腸チフス3300人に抑えることができたとの記録があります。
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1941(昭和16)年に始まった太平洋戦争では、戦傷以外にも感染症によって多くの命が失われました。日赤は伝染病棟を設けるなどして治療と予防を行いましたが、救護員も罹患し、命を落とした例がありました。
患者治療と移送のための病院船では、戦中のみならず戦後も引き揚げ時のコレラ等の伝染病患者を受け入れ、船尾にある伝染病室に収容し、揺れる船の中で、スタッフは治療と身の回りの世話に明け暮れました。
高熱を出し、脱水でやせこけ、口内の舌に付着した厚い苔状のもの(舌苔)で、食事を取れない兵士に対し、若い看護婦が一生懸命アイスクリームを作って、兵士の口の中に入れる様子を綴った先輩看護婦のエッセーなどが残っています。
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1983(昭和58)年、日赤はNHKと共催して第1回「NHK海外たすけあい」キャンペーンを実施しました。全国規模の募金活動による国際支援に踏み出した画期的な企画で、現在に至るまで毎年継続して実施しています。
大きな災害や紛争とは異なり、劣悪な衛生環境の中、感染症などで苦しむ人々の状況は世間から注目されないため「静かなる緊急事態」とも呼ばれます。キャンペーンでは「開発協力」の一環として、災害対策、人材育成、医療体制などの支援を行っています。
このほか安全な水の確保やトイレ設置などの公衆衛生普及によるコレラや赤痢の予防、HIV/エイズまん延が深刻化したアフリカ諸国の予防支援、ラオスでは買血による輸血からの感染症を防ぐための血液事業支援、エルサルバドルではジカ熱予防なども行い、最近は海外の新型コロナウイルス感染症対策も支援しています。
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※時代順にご紹介します。