特別企画

青少年赤十字創設100周年~子どもたちに未来を託して~

各国の赤十字社が取り組む「青少年赤十字」は、学校と連携しながら、子どもたちの中にある思いやりの心を育む事業です。

青少年赤十字のさきがけは、第1次世界大戦時にさかのぼります。欧米などでは赤十字社と協力して、子どもたちが兵士への慰問品集めや包帯づくりなどの奉仕活動を行いました。

第1次大戦終結後、国際赤十字が力を入れたのが、青少年赤十字でした。赤十字社連盟(後の国際赤十字・赤新月社連盟)は、平時から子どもたちに赤十字の理念である「人道」の精神を伝えることで、いつの日か戦争のない世界を実現したいとの願いを込め、各国の赤十字社に「少年赤十字」の結成を勧告したのです。

これを受け、日本赤十字社は1922(大正11)年5月5日、その趣旨を全国支部に通知。滋賀県で誕生した守山小学校少年赤十字団が、日本で最初の青少年赤十字とされています。

「命を大切にしてほしい」
「世界中の誰とでも仲良くなれる人に育ってほしい」
「そのことが、世界の幸せと平和につながってほしい」

青少年赤十字は健康増進や国際親善の実践を通して、未来を担う子どもたちを育んできました。創設から変わらぬ理想を追い続けてきた先生や子どもたちの100年を振り返ります。

日本の青少年赤十字について

  • 「気づき、考え、実行する」を合言葉に、命を大切にする「健康・安全」や、人のために尽くす「奉仕」の精神を学び、国境を越えて助け合う「国際理解・親善」を進めています。2021(令和3)年3月現在、全国で1万4502校が加盟、メンバーは345万6479人に上ります。
  • 青少年赤十字は、当初「少年赤十字」と称していました。英語表記はJunior Red Cross(JRC)ですが、Red Cross Youth(RCY)を使う国もあります。

注目ポイント

滋賀支部に届いた【少年赤十字ノ実施ニ関スル件通牒】

第1次世界大戦が始まると、各地で自国兵士への慰問品集めや包帯、靴下づくりが盛んになり、学校規模で活動が広がりました。その中で「少年赤十字団」として位置づけられたオーストラリア、カナダ、米国での取り組みが、青少年赤十字のさきがけと言われています。

大戦終結後の1920(大正9)年、赤十字社連盟は第1回総会で「すべての赤十字社は赤十字事業のためにその国の少年を養成すべし」と決議。1922(大正11)年には、加盟社に少年赤十字の結成を勧告しました。戦争のない世界の実現を、子どもたちに託そうとしたのです。

これを受け、日本赤十字社は同年5月5日、全国の支部に「少年赤十字ノ実施ニ関スル件通牒」を送り、「子どもたちの博愛の心を育み、健康の増進を図る」べく、少年赤十字の結成を小学校に働きかけるよう促しました。同年に滋賀県で誕生した守山尋常高等小学校少年赤十字団が、日本で最初の青少年赤十字とされています。

守山尋常高等小学校の少年赤十字団旗授与式

兵士の靴下を編む豪州の子どもたち(NSW State Archives所蔵)

「朝晩歯を磨きませう」のポスター 「世界の衛生」から

第1次世界大戦後、各国ではインフラの未整備や貧困による不衛生から多くの人々が病気になりました。日本でも公衆衛生は大きな課題でした。このため、日本赤十字社は、少年赤十字の目的の一つに「健康の保全及び増進」を掲げ、衛生教育の強化を打ち出します。

公衆衛生の心得を子どもたちに分かりやすく伝えようと、日赤は1924(大正13)年5月、17枚1組の「少年赤十字衛生ポスター」を作成し、全国の各支部、少年赤十字団、小学校に配布しました。「食前に手を洗うこと」「朝夕歯をみがくこと」など衛生の基本を温かみのある水彩画で表現しています。

赤十字社連盟は翌年2月、各国の赤十字社に対して情報を発信する「世界の衛生(The World’s Health)」でこれらを紹介。「真に理想的な積極的衛生ポスター」と絶賛しました。

【世界の衛生】1925年2月号

1924年発行【少年赤十字通信の手引】

少年赤十字団で積極的に取り組んだ活動の一つが、国内外の学校間で手紙やアルバムなどを交わす「通信交換」でした。

赤十字社連盟は、第2回総会で少年赤十字の国際通信交換の奨励を決議。連盟事務局も積極的に仲介を行いました。

日本赤十字社が1924(大正13)年に発行した「少年赤十字通信の手引」は「世界のあらゆる国の少年少女が、了解と友情とをもって結びつけられるならば、全世界の将来の福祉のため、また国際的正義と平和保障のため、比類なき力となるであろう」と意義を説いています。

子どもたちの心のこもった手紙に、アルバム、手作りの人形、工芸作品などを添え、日赤本社経由で送受信しました。

太平洋戦争中は国際通信交換を中断せざるを得ませんでしたが、1947(昭和22)年に再開。現在も、海外の青少年赤十字メンバーとアルバムなどの交換を続けています。

岡本帰一が表紙を描いた【少年赤十字】

1926(大正15)年、日本赤十字社は雑誌「少年赤十字」を創刊しました。年4回の発行で、太平洋戦争中まで続きました。

日赤の平山成信社長は創刊号で「当初は少年赤十字の規則を設けようと思ったが、少年赤十字をどう利用するかは指導者と団員の自発的な決定に任せるべきで、本社は参考資料の一つとして雑誌をつくることにした」との旨、経緯を記しています。

毎号20ページほどですが、国内外の少年赤十字団の活動紹介のほか、村岡花子、巖谷小波、柚木卯馬らによるエッセーや童話、おもちゃの作り方など内容は盛りだくさんでした。

表紙を主に手掛けたのは、童画家の岡本帰一。モダンな叙情あふれるタッチで、子どもたちの生き生きとした表情を描きました。各国の活動を紹介する「海外少年赤十字彙報」や、京都支部が独自に発行した「京都少年赤十字」も誕生しました。

各国の活動を紹介する【海外少年赤十字彙報】

京都支部が独自に発行した【京都少年赤十字】

【第15回赤十字国際会議議事概要】

4年に1度開催される赤十字国際会議は、ジュネーブ条約に加入する各国政府と赤十字社などが集い、認識を共有する国際赤十字の最高議決の場です。第15回会議は1934(昭和9)年、東京で開かれ、54カ国の赤十字社代表を含む319人が出席。日比谷公園で催した歓迎会には、全国の少年赤十字代表5000人が参加しました。

本会議では、国際会議に少年赤十字の代表者を出席させること、国際赤十字として子どもたちにジュネーブ条約(赤十字条約)の原則を分かりやすく伝える教育小冊子を発行すること、などを決議しました。

ジュネーブ条約は、いかなる状況下でも弱きを保護し、加害行為にブレーキをかけることを約束し合う国際ルールで、国際人道法とも呼ばれます。

決議には、子どもたちの命を守りたいと願う、当時の関係者の切なる思いが込められています。第2次世界大戦によって、決議内容の実行は一時中断されたかに見えましたが、時を超えて重みを増し、今に受け継がれています。

歓迎会には少年赤十字団代表の代表5000人が参加

青少年赤十字の顧問を務めたオードレイ・バセット

第2次世界大戦後、日本赤十字社は連合国軍総司令部(GHQ)や米国赤十字社の指導の下、組織再建を進めました。

少年赤十字も1947(昭和22)年の学制改革に伴い、高校生を含む「青少年赤十字」として、制度を改めることに。同年、米国赤十字社極東本部奉仕課長のオードレイ・バセットが日赤本社の青少年赤十字顧問に着任し、新制度づくりの中心的役割を果たします。

指導者向けの【赤十字の歴史と精神と組織】

国際人道法とも呼ばれるジュネーブ条約の周知は、加入国政府と各国赤十字社の責務です。1934(昭和9)年に東京で開かれた第15回赤十字国際会議は、子どもたちにジュネーブ条約の原則を説く教育小冊子の発行を決議しましたが、第2次世界大戦によって、決議の実行は停滞を余儀なくされました。

日本赤十字社は1955(昭和30)年、指導者向けの「赤十字の歴史と精神と組織」を発行。赤十字標章の意味などジュネーブ条約の原則も分かりやすく解説しました。

1957(昭和32)年の第19回会議は、青少年にジュネーブ条約の普及を図るために加盟社が具体的行動を取るよう決議。これを受け、日赤は翌年から全国の指導者を対象に研究会を開催し、国際人道法教育に関する資料の作成・改訂を重ねました。そこには「赤十字の歴史と精神と組織」が生かされました。

橋本祐子が受章した【アンリー・デュナン記章】

戦後の青少年赤十字をけん引した人物の中に、橋本祐子がいます。

1909(明治42)年に父の赴任先の中国・上海で生まれた橋本は、日本女子大学を卒業後、大蔵省官吏の夫と結婚。北京で終戦を迎え、引き揚げ後は母校で英語教師を務めていました。日本赤十字社の奉仕団の立ち上げに関わったことを機に、1948(昭和23)年に日赤入社。青少年赤十字の再建と発展に人生を捧げました。1960(昭和35)年から1971(昭和46)年まで、青少年課長を務めました。

リーダーシップ・トレーニング・センター(トレセン)の開始、青少年赤十字機関紙の創刊、青少年赤十字国際セミナー「こんにちは’70」開催など、業績は枚挙にいとまがありません。

「青少年間における国際理解とジュネーブ条約の普及を通して世界平和の推進に努力」したことなどが高く評価され、1972(昭和47)年に国際赤十字最高の栄誉「アンリー・デュナン記章」を、アジアで初めて、女性として世界で初めて受章しました。

子どもたちから「ハシ先生」と慕われた橋本(中央)

18カ国の代表が参加した【こんにちは’70写真】

日本赤十字社は赤十字社連盟と共同で1970(昭和45)年夏、青少年赤十字国際セミナー「こんにちは’70」を開催しました。東南アジア・太平洋地域18カ国の代表69人が日本に集い、1カ月間交流を深めながら、青少年赤十字の課題について意見を交わしました。

東京での開会式は青少年赤十字全国大会と合同で行い、セミナー参加者は御殿場合宿、地方支部の訪問、京都や大阪万博の見学などを経て、再び東京へ。ワークショップ発表会では青少年赤十字のこれからについて、熱のこもった提言が相次ぎました。

日本の青少年赤十字にとって、初の大規模な国際イベント。日赤青少年課長の橋本祐子を中心に2年前から開催準備を進め、語学奉仕団など大勢のボランティアが運営を支えました。

「こんにちは’70」は相互理解の促進に大きな成果を残し、その後に続く国際交流の起点となりました。

スライド教材【友情の井戸】

国内外の災害救援や国際親善などのために、子どもたちが自主的に日ごろの節約などで積み立てているのが「青少年赤十字活動資金」です。1959(昭和34)年に制度を定めました。

この資金はやがて「一円玉募金」とも呼ばれるようになり、1984(昭和59)年からはネパール赤十字社の飲料水供給事業に協力し、ハンドポンプ付き井戸や自然流下式簡易水道の整備を進めました。ネパールには、1960年代から全国の青少年赤十字メンバーが使用済み切手を集め、現地で結核治療・予防にあたる日本人医師の活動の支援を続けていた縁もありました。

1985(昭和60)年からは青少年赤十字代表団をネパールに派遣し、現地の子どもたちと一緒に作業を体験。単なる国際親善にとどまらず、奉仕活動を通して理解と友情を深める効果を生み、「国際理解・親善」活動の一つの方向性を創り出すことになりました。

1993年の青少年赤十字・奉仕団全国交流集会「はじめの一歩」

青少年赤十字の国際交流事業は、1989(平成元)年の支部あて通知「効果的な国際交流実施のためのガイドライン」を機に、1990年代は実施数が大幅に増加。交流対象の姉妹社はアジア諸国を中心に広がりました。

国内外の高校生による合同トレーニング・センターの実施や、12カ国の青少年メンバーと国内の青少年代表が集った「はじめの一歩」など大規模なイベントも続きました。1999(平成11)年度に国際交流を行った支部は、延べ28都府県に上りました。

マレーシアではともに救急法を学び、ネパールでは現地の子どもたちと一緒に飲料水供給事業に参加し、フィリピンでは噴火災害の被災者を訪問。

各国へ派遣する時も、海外メンバーを日本で受け入れる時も、ホームステイを通して異文化を体験します。見知らぬ国の人々と知り合い、親しく過ごした時間は、子どもたちのその後の行動や生き方に大きな影響を与えています。

防災教育プログラム【まもるいのち ひろめるぼうさい】

2011(平成23)年3月に発生した東日本大震災を契機に、学校における実践的な防災教育に対するニーズが高まりました。日本赤十字社は2014(平成26)年3月、気象庁と「防災教育の普及等の協力に関する協定」を締結。日赤が開発する防災教育プログラムに気象庁から監修・助言を受け、両者が行う防災教育や安全知識の普及啓発を一層充実・発展させるための体制を整えました。

2015(平成27)年に完成した、小中高生向けの防災教育プログラム「まもるいのち ひろめるぼうさい」は、自然災害から命を守るために、日ごろから意識を高め、助け合う心を育む教材です。授業や研修会、講習会などで活用しています。

2018(平成30)年には、幼稚園・保育所向けの教材「ぼうさいまちがいさがし きけんはっけん!」も発行し、普及に取り組んでいます。

防災教育教材【ぼうさいまちがいさがし きけんはっけん】

関連所蔵品

※時代順にご紹介します。

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