赤十字ヒストリー

赤十字の誕生と広がり、日本赤十字社の歩みをたどります。当館所蔵品は、この歴史の中で生まれました。

「人道」の
実現を求めて

初日本赤十字社が現在展開している9つの事業の「はじまり」です。

1859年

1859年6月、イタリア統一戦争の激戦地ソルフェリーノに程近いカスティリオーネの町。この地を訪れていたスイスの実業家アンリー・デュナンは、負傷兵たちの悲惨な姿を目の当たりにし、住民や旅人たちと協力して敵味方の区別なく救護しました。

ソルフェリーノの納骨堂。壁面には戦死者の骨が整然と並んでいます ©ICRC Archives

1862年

スイスに帰国したデュナンは1862年11月、救護体験を基に「ソルフェリーノの思い出」を著し、「傷ついた兵士はもはや兵士ではない。人間である。人間同士として、その尊い生命は救われなければならない」と篤志による国際的な救護団体の創設を訴えました。

デュナンの自筆原稿(Bibliothèque de Genève, Ms. fr. 2071)

「ソルフェリーノの思い出」初版本(赤十字情報プラザ所蔵)

1863年

「ソルフェリーノの思い出」の訴えはヨーロッパ各国で大きな反響を呼び、デュナンらによってジュネーブに赤十字国際委員会の前身である「五人委員会」が発足。1863年10月にヨーロッパ16カ国が参加して最初の国際会議が開かれ、赤十字規約ができました。

写真:アンリー・デュナン

赤十字の創始者 アンリー・デュナン

1828年、スイスのジュネーブ生まれ。敬虔なクリスチャンの家庭で育ち、実業家になりました。赤十字創設に没頭するあまり事業に失敗し、39歳の時に破産宣告を受け、放浪の身に。晩年はスイスのハイデンの病院に身を寄せ、1910年に82歳で永眠しました。1901年に第1回ノーベル平和賞を受賞。

1864年

1864年8月、スイスなどによる外交会議で最初のジュネーブ条約(いわゆる赤十字条約)調印。「ソルフェリーノの思い出」の出版から2年10カ月を経て、国際赤十字組織が誕生しました。

1867年慶応3年

佐賀藩士の佐野常民はパリ万博の赤十字パビリオンで、国際条約に基づいて敵味方の区別なく戦時の傷病者を救護する赤十字の志と活動に感銘を受けました。ヨーロッバ諸国に赤十字が広がっていることを知り、このような人道的国際組織の存在こそ、文明進歩のあかしと考えました。

写真:佐野常民

日本赤十字社の創設者 佐野常民

1822年、佐賀に生まれ、蘭学(医学、軍事、科学)などを修めました。明治維新後は兵部省、工部省などを経て、大蔵卿、元老院議長、農商務大臣などを歴任しました。

1877年明治10年

西南戦争が起きると、元老院議官の佐野常民と大給恒は、明治政府に博愛社設立願書を提出します。時期尚早などとして不許可になりますが、佐野は熊本に向かい、官軍の征討総督・有栖川宮熾仁親王に博愛社の設立を願い出て、同年5月3日付で許可されました。直ちに熊本と長崎に医師らを派遣し、救護活動を行いました。

博愛社設立の願書と社則

1886年明治19年

日本政府がジュネーブ条約に加入

博愛社は1886年11月、東京・麹町区飯田町(現在の千代田区飯田橋)に、活動の本拠地となる事務所と救護員を養成するための病院を設けました。

博愛社の事務所と病院(絵画)

1887年明治20年

日本政府のジュネーブ条約加入を受け、博愛社は1887年5月20日、社名を「日本赤十字社」に改称。同年9月2日には赤十字国際委員会から承認を得て、国際赤十字の一員に加わりました。

日赤初のボランティア組織「日本赤十字社篤志看護婦人会」設立

日本が初めて赤十字国際会議に参加したのは、1887年にドイツのカールスルーエで開催された第4回会議でした。政府代表として陸軍軍医監の石黒忠悳、日赤代表として松平乗承が出席しました。この時、通訳を務めたのはドイツに留学中の陸軍一等軍医の森林太郎(後の森鴎外)と谷口識でした。

森鴎外自筆による国際会議の記録

1888年明治21年

1888年7月、福島県の磐梯山が噴火し、岩なだれや土石流などがふもとまで押し寄せ、死傷者は500人以上に上りました。日赤は医師らを派遣し、延べ105人の負傷者を手当てしました。これが日赤最初の災害救護活動となりました。

被災者を診る日赤派遣の医師

1890年明治23年

トルコ軍艦エルトゥールル号遭難で救護活動

1891年明治24年

1891年10月の濃尾地震は岐阜、愛知両県を中心に死者は7000人以上を数えました。地元支部の救護員が負傷者を手当てし、本社も医師と看護婦(20人のうち半数は養成中の第1回看護婦生徒)を派遣しました。

濃尾地震災害で救護活動を行う看護婦たち

1894年明治27年

日本政府のジュネーブ条約加入後、最初の戦時救護活動が日清戦争でした。日赤は臨時病院、国内の軍病院に救護員を派遣し、手当てした傷病者は延べ10万人を超えました。

1899年明治32年

2隻の船は、平時は貨客船として使われ、戦時は傷病兵らを移送する病院船に。北清事変、日露戦争、第1次世界大戦などで活躍しました。

博愛丸

弘済丸

1904年明治37年

日露戦争が始まると、日赤は臨時救護部を設け、満州・朝鮮方面に150個班以上の救護班と2隻の病院船を派道しました。

病院船「博愛丸」の船内でレコードを聴く傷病兵

1912年明治45年

積み増しを経ながら、赤十字の平時事業を奨励する基金として運用。現在は途上国の赤十字社・赤新月社を中心に利子を配分し、防災や感染症対策事業などに活用されています。

1912年大正元年

本社事務所を芝区芝公園6号地(現在地)に新築移転

1914年大正3年

第1次世界大戦が始まり、日本も参戦したため、直ちに病院船2隻と救護班を派遣しました。ロシア、フランス、英国にも救護班を派遣して傷病者の治療に当たりました。

英国に派遣した救護班

夏季児童保養所事業など社会福祉事業を開始

1920年大正9年

看護師最高の栄誉「フローレンス・ナイチンゲール記章」は赤十字国際委員会が卓越した功績のあった看護師などに贈るメダルです。第1回の授与は1920年で、日本からは萩原タケ、山本ヤヲ、湯浅うめの3人が受章しました。

萩原タケが受章したナイチンゲール記章

第1次世界大戦とロシア革命後の混乱の中で、極寒のシベリアに取り残されたポーランド孤児を救おうと、日赤は1920年から東京と大阪で計765人の子どもたちを受け入れ、母国ポーランドに無事帰しました。

日本の収容施設で食事をする子どもたち

1922年大正11年

少年赤十字団が誕生

1923年大正12年

1923年9月1日、関東地方でマグニチュード7.9の地震が発生。被害は東京、神奈川など7府県に及び、死者・行方不明者は約10万人を超えました。日赤は各支部の救護班を動員し、延べ206万人余を救護しました。

五姓田芳柳(二世)「関東大震災当時の宮城前本社東京支部臨時救護所の模様」
(日本赤十字社東京都支部所蔵)

1926年大正15年
1931年昭和6年

満州事変で救護活動を行う

1934年昭和9年

第15回赤十字国際会議が1934年10月、日本赤十字社本社で開催されました。アジアで初めての赤十字国際会議。各国の政府や赤十字社、国際機関から約300人が参加しました。10日間の日程で活発な議論や交流を深め、大きな成果を収めて日赤の国際的な地位を高めました。

日赤本社で開かれた第15回赤十字国際会議

1937年昭和12年

1937年7月に始まった日中戦争から1945年8月の太平洋戦争終戦まで、日赤が国内外に派遣した救護班は955個班、救護要員数は延べ3万5785人に上りました。空襲の際は、被災地の巡回診療や臨時救護所での救護活動に当たりました。

日赤本社を出発する戦時救護班

1945年昭和20年

原爆が投下された広島、長崎の街は壊滅的な被害を受けました。日赤は被爆直後から周辺支部などの応援を得て、懸命に救護に当たりました。

写真:マルセル・ジュノー

マルセル・ジュノー

1904年、スイス生まれ。赤十字国際委員会駐日首席代表のジュノ一は原爆による惨状を知ると、1945年9月、調達した15トンの医薬品を持って広島に入り、多くの被災者を救護しました。

1946年昭和21年

敗戦後、日赤の今後の在り方を連合国軍総司令部(GHQ)や赤十字国際委員会、米国赤十字社極東本部、日赤で討議。民主的団体に改組し、戦争を放棄した国の赤十字社として災害救護に重点を置いた体制の確立、奉仕団育成などの新たな方針を打ち出しました。

日赤の再建案を討議する島津忠承社長(左から2人目)

1952年昭和27年

日本赤十字社血液銀行東京業務所を設け、血液事業を開始

1951年9月のサンフランシスコ講和条約調印の際、日本政府は条約発効から1年以内に「1949年8月12日のジュネーブ条約」などに加入することを世界に約束しました。そこで日本赤十字社に特殊法人(現在は認可法人)として法的根拠を与え、①中立の立場での自主的活動の保障 ②民主的管理機構による運営―などの基本構想を盛り込んだ「日本赤十字社法」が1952年8月14日、制定されました。

1953年昭和28年

第2次世界大戦後、国交の無い国に多数の日本人が取り残されました。日赤は人道的な立場からそれぞれの国の赤十字社と交渉を行いました。その結果、ソ連から1664人、中国から3万3211人、北朝鮮から36人、北ベトナムから115人が帰国しました。

中国からの引き揚げ者を乗せた船が京都・舞鶴港に到着

在日中国人の帰還は1953年から1958年まで実施し、3771人が帰国しました。

1959年昭和34年

伊勢湾台風で災害救護

在日朝鮮人の帰還は1959年から1971年まで実施し、帰国者数は8万9692人に上りました。

北朝鮮帰国希望者に帰国の最終意思確認を行う赤十字国際委員会スタッフと日赤職員

1960年昭和35年

1960年5月、日赤は当時社会問題と なっていた買血(売血)の弊害を訴えるとともに、人道的立場から血液事業の正常化を図ろうと、献血推進キャンペー ン「赤十字愛の献血運動」を展開しました。その後「愛の血液助け合い運動」に改称し、毎年7月に実施しています。

東京・銀座で献血に応じる人々

コンゴ動乱で戦後初の医療班海外派遣

1971年昭和46年

国際赤十字最高の栄誉、アンリー・デュナン記章。青少年赤十字の普及に努めた橋本の受章はアジア初、女性初でした。語録のひとつ「できるかできないかではない。したいか、したくないかである」は多くの人々の心に印象深く刻まれています。

1977年昭和52年

ベトナム戦争が終結した1975年以降、小型船などで祖国を脱出し、日本にたどり着くベトナム難民が相次ぐようになりましたが、当初は事業資金不足もあり、寝具・衣服・医薬品の供与や赤十字病院での医療援護など側面からの支援にとどまっていました。1977年に日本政府からの財政援助を受け、ベトナム難民の一時収容援護活動が始まり、1994年まで全国16施設で4723人(国内で出生した188人含む)を受け入れました。

宮崎県支部が運営した「赤十字ベトナムの家」

1983年昭和58年

国際赤十字創設120周年、 NHKテレビ放送開始30周年にあたる1983年、募金キャンペーン「NHK海外たすけあい」を始め、緊急救援に加え開発協力や防災分野などの国際支援を積極的に展開しています。

ネパールでの飲料水供給事業

1985年昭和60年

群馬県「御巣鷹の尾根」の日航機墜落事故で救護班派遣

1991年平成3年
ソ連チェルノブイリ原発事故の被ばく児童を広島、長崎の両原爆病院で診療
雲仙・普賢岳噴火災害で救護活動
1995年平成7年

1995年1月17日早朝に発生した阪神・淡路 大震災は、死者・行方不明者6434人、負傷者4万4000 人余を数え、兵庫県を中心に甚大な被害をもたらしました。日赤は全国から延べ981個班(5959人)を派遣。救援物資の搬送要員はボランティアを含め、延べ3436人に上りました。

バイクボランティアが支援活動に参加

1996年平成8年

1996年12月6日、ペルーの日本大使公邸を武装グループが襲撃し、日本人を含む約600人が人質となりました。日赤は現地に職員を派遣し、赤十字国際委員会と協力して、医療や生活の支援、人質と家族をつなぐ手紙「赤十字通信」の伝達などを担いました。

2004年平成16年
新潟県中越地震で救護活動。「こころのケア」を本格 的に展開

2004年12月にスマトラ島沖で発生した地震により、インドネシア・スリランカなどを大津波が襲い、 死者・行方不明者22万人という大惨事となりました。日赤は延べ105人の医療班などを派遣し、防災対策や住宅建設など5年にわたる復興支援も実施しました。

2005年平成17年
愛知万博に国際赤十字・赤新月パビリオンを出展
2009年平成21年

2期8年の連盟会長在任中は「連帯の精神」を施政の中心に据え、世界70カ国を訪問。2010年11月に広島で開催された第11回ノーベル平和賞受賞者世界サミットでは、連盟会長として「核兵器は人道の理念に反する兵器である」とスピーチし、国際赤十字運動による核兵器廃絶への歩みを加速させました。

第19回連盟総会で登壇する近衞社長(2013年、シドニー)

2010年平成22年

2010年1月に発生したハイチ大地震は、死者22万人、負傷者30万人、被災者370万人、損壊家屋20万戸という壊滅的な被害をもたらしました。日赤は直ちに先遣隊を送り、連盟会長の近衞社長らも現地に向かいました。その後、計6班(74人)の医療チームを半年間派遣。コレラまん延防止対応や復興支援活動も実施しました。

生後6カ月の赤ちゃんを診察する日赤医師
©Talia Frenkel_American Red Cross

2011年平成23年

2011年3月11日に発生し、大津波を引き起こした東日本大震災。死者・行方不明者2万2303人を数え、原発事故の影響もあって1週間後の避難者数は39万人余に上りました。発災当日、日赤は全国の支部から救護班55班が被災地に向け出発。同年9 月までに894班(6492人)を派遣し、7万5892人を診療しました。 世界各国から寄せられた1000億円を超える救援金により、多岐にわたる復興支援を行いました。

津波で壊滅した岩手県大槌町に入る日赤先遣隊

2015年平成27年

内戦が長期化するシリアや、パレスチナ、イエメンなど中東地域の避難生活を余儀なくされている人々を支援するため、日赤は2015年からレバノンに中東地域代表事務所を置き、国際赤十字や現地の赤十字社・赤新月社と協力して衛生や医療などの支援事業を展開してきました。支援総額は10億円に達します。

2016年平成28年

震度7の地震が短期間に2回も発生し、余震も多発。死者は関連死を含めて273人、住宅被害は約20万7000棟に及びました。日赤は1689人の救護員を派遣し、エコノミークラス症候群予防や、被災者のストレスを和らげる「こころのケア」にも力を入れました。