東日本大震災から10年 矢野きよ実さんインタビュー
被災地を「想う」
東日本大震災の発生から今日で10年が経ちます。
令和3年1月1日発行の日赤あいち145号では、クローズアップのコーナーで東日本大震災から10年を取り上げ、「今、私たちにできること」とは何かを考える特集記事を掲載しました。その特集の中で、発災当時から赤十字とも協働し、被災地の支援を行ってこられた矢野きよ実さんにインタビュー協力をいただいています。
本ページでは、紙面の都合上掲載しきれなかったお話を含めて、そのインタビューの内容を再構成してお伝えします。
矢野きよ実さん:名古屋市大須出身のパーソナリティ、書家
赤十字と矢野さんのつながり
矢野さんと赤十字の協働は発災直後、街頭募金活動を始めようと決意された矢野さんが、信頼できる協力先として赤十字に声をかけてくださったことから始まりました。そして発災から約1か月後、矢野さんは赤十字救護班とともに宮城県石巻市の雄勝を訪れ、そこで運命的な出逢いを果たされます。
当時の記事(東日本大震災 矢野きよ実さん 募金活動&被災地訪問)はこちらからご覧いただけます。
この出逢いをきっかけに、書で心を開く「書きましょ」の活動による支援をはじめとして、矢野さんはさまざまな形で被災地に寄り添ってこられました。
被災地を初めて訪れた時のことを聞かせていただけますか
さかさまになった家、2階建ての建物の上に乗ったバス、橋にびっしりとついた衣類や家財などの漂流物、小学校に並んだ亡くなった子どもたちのランドセル、その近くで重機を使い家族の遺品を探す人々の姿…発災から1か月が経ったころでしたが、すさまじい状況でした。余震もまだ繰り返し起きていて、私も震度6弱の余震を体験しました。
そんな辛い状況の中でも、自宅が津波に流されなかった人たちの中には、「もっと大変な人もいるから」、と避難所に行くのを遠慮して被災した自宅にとどまっている方もいて、東北の人々は周りを思いやりあう温かい人たちばかりでした。
炊き出しなどの活動も行われていたと伺いました
避難所での炊き出しは何度も行いました。水の出るお寺が避難所になっていて、そこでみそおでんなどの炊き出しを行いました。有志のチームで支援活動を行っていたのですが、家庭の都合で現地にボランティアに入れない人からも、その代わりにと食材をいろいろと支援してもらいました。そんなたくさんの仲間の想いも一緒に連れて、被災地で100人分とか、300人分とかの炊き出しを何度も行いました。
炊き出しの列に並んだ方々から「〇人分です」、とそれぞれの必要な数を聞いて食事を配るのですが、その中で泣きそうな顔で「一人です」、といった女性の声が今でも忘れられません。「あの日が来なければ、私は一人じゃなかった」という、ご家族を亡くした悲しみが伝わってきてたまりませんでした。
他にも衣類や駄菓子などの支援物資の提供も行いました。被災した人全員には配れないけれど、まずは縁があった人たちを助けようと、被災地でつながりのできた人々から現地の状況を聞いて、そこに届けていました。
東北での「書きましょ」の活動はどのようにして始まったのですか
「書きましょ」自体は東日本大震災以前から行っていた活動ですが、東日本大震災の被災地での実施は震災の年の7月30日の雄勝での活動が初回でした。
東日本大震災の被災地に行き一番勉強になったことでもあるのですが、周りの大人が大変だと、子どもは笑うんです。先生方も、保護者の方も、みんな被災者だったから、被災地の子どもたちは大人に笑顔を見せていました。
「大人でもPTSDになったり、仕事が手につかない状況だったりしたのに、子どもたちが平気なはずがない。私たちはどうしていいかわからない。」、「なんとかして子どもたちの声を聴いてほしい。」、そんな声を現場の先生方からいただいて、東北での「書きましょ」の活動が始まりました。
「書きましょ」の“書で心を開く”とはどのような取り組みでしょうか
「書きましょ」では、子どもたちの心の中にあるものを、そのまま筆を通して書いてもらいます。書き方に決まりはなくて、ひらがなでもカタカナでも漢字でも、書き方も書き順もどうでもいいし、書きたくなければ書かなくてもいいんです。私たちは紙と墨と筆を用意して、笑顔で寄り添うだけ。私たちは「子どもたちに質問はしない」ことと、「泣かない」ことだけがルールです。
30分くらい経つと、子どもたちは自然と語り始めます。きっとそれは私たちが被災していないよそ者だから…。次々と出来上がる書には、「死なない」とか「生きたい」とかそんな歳の子どもたちからは普段出てこない言葉がたくさんあって、やはり彼らはそれだけの経験をしてきたんだと感じました。そんな思いをずっと誰にも言えずに抱えたまま、「書きましょ」をきっかけに数か月振りに話してくれた子もいました。
印象的だった心の声はありますか
大きく“父”、とだけ書いた後、「父ちゃん、津波で流された」と教えてくれた子、幼稚園バスごと大勢の友達を亡くした女の子が、震災から2年かけてようやく書いた“みんな元気で”、お父さんを震災で亡くし「大好きなお父ちゃんお母ちゃんからもらった大事な名前」と自分の名前を書いた子、2時間近く何も書かずに立ち尽くした後、最後の最後に“いいことがある”と繰り返し何度も書いた子…、思い出せばきりがありません。震災はあの日ひとりひとりに起きました。みんなにそれぞれのあの日の記憶があるんです。
子どもたちの書いた書を展示する取り組みも行われていたんですよね
初めて東北での活動を行った日の最後に、一人の子どもが書き終わった書を私のところに「持って行ってけれ」って差し出したんです。その時、持ち帰る家や家族のいない子がいることに気が付きました。それで、「預けてくれる人は預けて」と声をかけたんです。そこからこれまでの活動を通して、子どもたちから何千枚という書を預かりました。
いろいろなところでそれらの書の展示や「書きましょ」についての講演の機会をいただいて、東北の子どもたちの書を見てもらいました。不登校や引きこもり、いじめなど様々な問題で苦しむ子どもたちも、東北の子どもたちの書を見ることで自分たちの幸せに気づいたり、同じ苦しみに共感したりと変化が生まれます。「今日僕は死のうと思ったけど、死なないでおこうと思う」という感想を受け取ったこともあって、子どもたちの声が子どもたちを救っているんだと感じました。
発災してすぐの活動と、数年経ってからの活動とで、子どもたちの反応に違いはありましたか
全く変わらないと思います。被災地の風景は変わったし、子どもたちもみんな学校に行けるようになりました。でも子どもたちの辛い記憶や悲しい気持ちは簡単にはなくなりません。
震災の体験は、きっと子どもたちにとって勇気にも優しさにもなるけれど、心の復興には時間がかかります。だからこそ、その辛さや苦しさをわかってくれている人や、「大丈夫?」と気にかけてくれる人がいることが支えになると思います。
発災から10年が経った今、私たちにできることは何でしょうか
書き終わった書を「みんなに見せて」と持ってくる子どもたちは、「忘れないで」と願っているんだと思います。ただ「忘れないで」という言葉は少し強すぎるかもしれないし、震災の記憶を無理には思い出せない人もいるでしょうから、私はみなさんに「想う」ことが大切と伝えたいです。
きれいな景色を見たときや、おいしいものを食べたとき、それを共有したい大切な人の顔が浮かぶそんなときに、私は東北の子どもたちの顔を一緒に思い浮かべて、みんなにもいいことがあるといいなと想うんです。
相手を想うことは、きっとその相手にも届くと私は信じています。
インタビューへのご協力、ありがとうございました!
「想う」と「備える」
日赤あいち145号の中で「いま、私たちにできること」として挙がったキーワードは二つありました。
一つはこのインタビューの中で語っていただいた、被災地を「想う」ということ、
そしてもうひとつが愛知県支部の災害救護担当が語った、災害に「備える」ということ。
震災から10年という節目を契機に、今、改めて実践してみませんか。