被爆の瞬間から始まった赤十字の取り組み
1945年8月、突如として落ちてきた二発の原子爆弾。凄まじい一閃と共に町は廃墟と化しました。人びとがのた打ち回り、高温の火の粉が舞う放射能汚染の下、想像を絶する日赤の緊急人道支援が開始されました。当時の救護体験を綴った数少ない貴重な証言が、今も残されています。その一部をご紹介します。
日本赤十字社の広島・長崎原爆救護の証言集
トイレに入った私は青白い閃光を小さな窓部にみた瞬間、頭上にガラガラとくずれ落ちてくる物体に「やられた」と思った時、どうしてその場を抜け出したのか、とにかく後になって現場を見た時、殆ど無傷で出られた自分が不思議でならなかった。(第百十二救護班想い出の記『鎮魂の譜』)
前庭に押しかけて来ている被爆者で一杯、次から次へ担架で運び込まれているも、次々に死亡、全く地獄絵図さながらの状態であった。(被爆の惨状と救護活動の状況『鎮魂の譜』)
落下物を押し分けて、やっとの思いで病室に戻ったとき、そこはまさに修羅場のような光景でした。ベッドに身体や首を挟まれ、大きなガラスの破片が顔や腹に刺さり、血に染まって、まるでこれが戦場ではないかと思うほどの凄さでした。(生き残った一人として『いのちの塔』)
被爆による火傷には蛆が蠢(うごめ)き、医療器具も乏しいので割箸二本をピンセット代りにしてつまみ出すが、なかなか取りきれない。(山狭の静かな村で『きのこ雲:日赤従軍看護婦の手記』)
患者は丸裸で見るも無残な姿ばかりでした。(思い出のピカドンで終戦を迎え『あいち従軍看護婦の記録』)
被爆者のだれもが激しい爆風と強力な放射熱のため、頭髪は焼きちぎれ、全身熱傷、顔面流血、体はガラス、木片、鉄の破片などが刺さり、痛ましい姿。なかには、力尽き果て冷たい姿となった母親の上に横たわる幼な子、そのなまなましい姿、この世のものとは思えない地獄の様相を呈していた。道路上に横たわる負傷者までは手が届かず、救護所まで歩いて来る患者だけを応急処置するのが精いっぱいだった。(私も原爆当日、爆心地に入った救護隊員『閃光の影で:原爆被爆者救護 赤十字看護婦の手記』)
その後も、死者は次々と増加し、その死者をダビに付すのも私達の仕事であった。(忘れ得ぬ瞬間『鎮魂の譜』)
誰一人不平不満も口にしませんでした。黙々と当然の使命だと一生懸命だったのです。(閃光の中に友は逝った―広島のあの日『ほづつのあとに 殉職従軍看護婦追悼記』)
(朝鮮の男の人が)母国語で「アイゴーアイゴー」といつも私たちがそばを通ると足や被服のすそに手を伸ばして助けを求めていました。(アイゴーアイゴー朝鮮人の悲鳴が『閃光の影で:原爆被爆者救護 赤十字看護婦の手記』)
突然ドターン!と物が倒れる音がしました。何だろうか、と思ってふり返ると、助手の看護学生が湯飲みのウジを見て貧血を起こして倒れた音だったのです。(耳の穴でうごめくウジ 看護学生も卒倒『閃光の影で:原爆被爆者救護 赤十字看護婦の手記』)
患者の看護に当たりながら、私たちも白血球測定をしては、あと二、三カ月の生命かも知れないと不安な気持ちを高めた。(廃墟から出て『きのこ雲:日赤従軍看護婦の手記』)
原爆の後遺症に悩みながら、世の偏見を逃れるために被爆者であることを隠し、ひっそりと罪を犯した者のように生きている人たちがいた。私の班員たちの中にも、そんな人たちがいた。(あとがき『きのこ雲:日赤従軍看護婦の手記』)
極限状態におけるひとつの救い
一瞬にして灰塵と帰した街で、奇跡的に生き延びた日赤の救護員や医師、職員は自分たちのけがや放射能の影響も顧みず、生存者の救護に当たりました。中には、あまりの現状に精神的なバランスを失い自殺した医師や、後に原爆症で亡くなった救護員も数多くいたといいます。
日本赤十字社の原爆救護活動は、人類にとって極限ともいえる悲惨な状況の中で、ひとつの救いとなる事実として残っています。
赤十字の核兵器廃絶に向けた活動について、さらにお知りになりたい方はこちらをご覧ください。