[ 3.11 あれから10年:第7回 ] 見上げて、希望のスマイルマーク シリーズ 『3.11~あれから10年を生きて』 第7回/東日本大震災の発生から2021年3月で10年です。 来年の3月号まで「3.11」から人生を変えた人々の物語を毎月連載します。
赤十字飛行隊 福島支隊 室屋 義秀さん
君はどこから来たんだ。
外国人パイロットが、何気なく聞いてきました。しかし私が日本の福島から来た、と答えると、彼は身構えて、
「こんなところに居て大丈夫なのか!?」と。
イタリアで2011年8月に開催された曲技飛行の世界選手権でのことです。
福島で原発事故が起きてから5カ月。当時は世界中が日本の放射能汚染を不安視していました。中には日本人や日本から運び込まれる物に警戒する人々も。
しかし私は、自分が世界の舞台で活躍する姿を示すことで、世界の偏見を払拭したい、と予定通りに選手権に参加しました。
パイロットは子どもの頃からの夢でした。
大学の航空部で18歳から飛行訓練を開始。アルバイトでお金をためて海外に行き、パイロット修行に全てをささげる日々。
1999年に縁もゆかりもない福島に生活拠点を移したのは、福島市に「ふくしまスカイパーク」という農道離着陸場があり、曲技飛行などのスカイスポーツに適していたからです。
その後2003年には曲技飛行のNPOを立ち上げ、愛好者が増加。2006年には福島市からその飛行場の管理を委託されました。
「空のF1」と称されるレッドブル・エアレース・ワールドチャンピオンシップに参加したのは2009年。
アジア人初です。サムライパイロットと呼ばれ、2017年に年間総合優勝するまで世界中のエアレース、エアショーで休みなく飛び続けました。
私は福島県の赤十字飛行隊の創設メンバーです。しかし、3.11の災害発生直後は、飛行隊として空に上がることは断念しました。
災害発生からの数週間、福島の上空では24時間、自衛隊や消防の飛行機、ヘリコプター、ドローンまで飛び回っていたのです。
私も飛行場に駆けつけ、重機を借りて除雪し、支援のために飛ぶことを考えましたが、緊急支援ヘリコプターの地上支援に専念しました。今は飛べなくても、後で自分にできることがある、そう信じて。
災害後すぐに、海外の友人・知人から「日本を出てこちらで生活しないか」という誘いもありました。パイロットとして活動するには環境の整った海外で暮らす方が都合が良い。でも、私は福島に残ることを選択。やっぱり日本、そして福島をベースに活動したかったから。
今、新型コロナウイルス感染症に対応するため防護服を着た人々の映像を見ると、あの頃のことを思い出します。
3.11の後、福島への偏見は日本国内でも、とくに西に行くほど顕著に感じました。面積の広い福島には放射能の数値の低い場所がたくさんありましたが、無遠慮なことを言われて、冗談めかして自分の頭や体のほこりをその人に向かって払って見せたこともあるんですよ。
こういった偏見を持つ人には、時に冗談を交えながらも、ちゃんと科学的なデータを用いて、丁寧に説明することにしています。
今年の夏、福島県と山形県の上空に、合わせて約30個のスマイル(ニコちゃん)マークを描くフライトを実施しました。プロペラ機の白煙で作られた線が青空にくっきりと浮かび上がり、たくさんの方がSNSで写真や動画を投稿してくださいました。
うつむきがちな時、空を見上げると、気持ちが変わります。
どうにもならない困難があっても、どうか顔を上げて。
飛行機乗りにしかできない、人びとの心を明るくする魔法だと信じて、これからも飛び続けます。
■室屋さんの活躍、さまざまなメッセージはこちらに!!⇒ 公式Youtubeチャンネル
■スマイルマークを描くフライト( Fly for ALL #大空を見上げよう フライト)