武器なき勇者、マルセル・ジュノー博士
1945年8月、世界で初めて核兵器が広島と長崎に投下され、多くの人々が犠牲となりました。原爆投下の影響を確かめるべく外国人医師として初めて広島入りしたのは、「ヒロシマの恩人」として今も慕われるマルセル・ジュノー博士でした。
広島を救った15トンの医薬品
昭和20年(1945年)8月9日、広島に続き、長崎にも原爆が投下されたその日、ジュノー博士は、赤十字国際委員会(ICRC)の駐日主席代表として来日しました。来日した博士の当初の目的は、連合軍捕虜などの処遇を調査し、やがて訪れる終戦時に捕虜たちの帰還を行うことでした。
しかし、自らが広島へ派遣したICRC職員の報告により原爆被害の惨状を知ると直ちに連合軍司令部(GHQ)へ救援を要請、戦争が終わるや調達した15トンの医薬品を持って9月8日に自らも広島入りし、被害調査に当たるとともに治療に携わりました。
被爆後の広島では医薬品不足の状態が続いたため、ジュノー博士から提供された医薬品は大変貴重なものでした。これらの医薬品の中には、当時入手困難だった「ブドウ糖注射液」なども含まれています。
ジュノー博士の尽力により救われた被災者は、数万人とも言われています。
人道主義を追求して
当時、広島県庁の衛生課で務めていた松永医師は、ジュノー博士とともに医療救援活動にあたりました。
松永医師がジュノー博士とともに救護所に立ち寄り、若い軍医から被爆者の解剖の標本や写真について説明を受けたときのことです。ジュノー博士は、写真を十数枚選び出し、赤十字で借りたいと申し出ました。
軍医が「軍事機密だからお貸しすることはできない」と断ったとき、ジュノー博士は「何が軍事機密ですか!あなたはまだ戦争をしているつもりですか。不幸な戦争がもたらしたこの悲惨な証拠をジュネーブに持ち帰り、全世界の人々に見せることが戦争の再発を防ぐことにはなると思いませんか。亡くなった被爆者やいまもなお十分な手当てが受けられない患者にとって、それがもっとも意義のあることだ」とテーブルを叩いて詰め寄り、軍医を説得したと言います。
松永医師は、「ジュノー博士の人道と正義を追求する姿勢に感銘を受けた」とのちに語っています。
大佐古一郎『ドクター・ジュノー 武器なき勇者』(1979年)新潮社 pp16-34 松永勝医師回顧談より
武器なき勇者
ジュノー博士は帰国後、1925年の毒ガス等使用禁止に関するジュネーブ議定書と同様に核兵器に対しても適用することを訴え、広島の原爆の非人道性を訴えました。
また、日本で任務を終えた後、一冊の本『Warrior without Weapons』を著しました。博士がICRCの任務を通して見たもの。それは、傷つき、自由を奪われた人たちに寄り添う人間の力でした。
私がこれまで目にしてきたことを、"過去の出来事"として片づけるわけにはいけません。いまだに同じような光景が目の前に広がり、この先はさらに広がっていくでしょう。助けを呼んでいる人たちは数知れず、彼らのその声はあなたに向かっているのです。
Marcel Junod『Warrior without weapons』(1982年)International Committee of the Red Crossより
70年以上前に書かれた彼のメッセージが、今も色褪せることなく私たちへの警告となっている現状に、私たちはもう一度思いを巡らせる必要があるかも知れません。
未来に向けた赤十字の活動
「核兵器は禁止すべき無差別兵器である」と、赤十字は終戦直後から表明し続けています。このスタンスは、もし実際に核兵器が使用された場合、赤十字をはじめ適切な救護活動・診療活動を行うことができないという深い憂慮によるものです。
赤十字は、核兵器禁止条約への各国の署名及び、それに続く批准に向け、日本を含む各国への働きかけを行っています。2017年の赤十字の国際会議では、核兵器廃絶にかかる決議が採択され、核兵器廃絶に向けた活動の継続のため次世代を担う青少年への啓発活動が求められています。
私たちが被爆者の語り部の方々から被爆体験を直接聞く機会は限られています。戦後世代の私たちの役割とは何でしょうか。一緒に考えてみませんか。
(参考)
- 大佐古一郎『ドクター・ジュノー 武器なき勇者』(1979年)新潮社
- Marcel Junod『Warrior without weapons』(1979年)International Committee of the Red Cross
- ICRC元駐日代表マルセル・ジュノーの足跡を訪ねて
https://www.youtube.com/watch?v=2TBal48mooM (2018年7月31日現在)