バングラデシュ南部避難民保健医療支援 避難民の5年間:ミャンマーからバングラデシュへの逃避行と避難民キャンプの生活

画像 避難民が続々と到着する2017年10月下旬のコックスバザールの様子(C)JRCS

 2017年8月25日にミャンマー・ラカイン州で発生した暴力行為から逃れた大量の避難民が、隣国バングラデシュに流入してから5年が経過しました。日赤の支援初期からボランティアリーダーとして長く活動を共にしてきたゴニさんに、ミャンマーでの生活やバングラデシュへの避難の様子を伺いました。

ミャンマーでの暮らし

 私(ゴニ)の郷里はバングラデシュと国境を接するマウンドーです。政府の仕事には就けず、教育機会の制限などの差別はありましたが、ミャンマーでの生活で命の危険を感じることはありませんでした。それが2012年の紛争(注1)以降状況が悪化しました。

私はマウンドーから南に100kmほど離れた場所にあるシットウェーの大学で歴史を専攻し2004年に学位を得ました。私の世代は多くの同胞がその大学で学んでいましたが、その後政府の入学許可を得るのが難しくなりました。私は学生時代から2012年まで教師の仕事をした後、2015年から国際NGOで働いていました。

2010年頃に義母の怪我の治療のためにバングラデシュに来たことがあります。その時は、クトゥパロン難民登録キャンプ(注2)の親戚宅に3泊しました。キャンプの住居の狭さや環境の悪さに驚き、ミャンマーに戻ってから人々に避難民生活の大変さを話したことを覚えています。

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左からゴニさんのお父さん、次女、ゴニさん、長女(C)JRCS

注1:2012年6月以降、ラカイン州において仏教徒ラカイン族とムスリム住民との間で衝突が発生、9万人以上が国内避難民になった事。
注2:2017年の大流入以前にバングラデシュで難民登録された人々が住むキャンプの一つ。

避難してきた時のこと

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2017年10月バングラデシュ赤新月社が設置した登録デスクに集まる人々@JRCS

 2017年9月1日に、父母、親戚約50人と一緒にバングラデシュへ避難してきました。私が皆を統率しました。私たちの村とバングラデシュの国境は、普通であれば30分で来られる距離ですが、銃撃の恐れがあるため山中を通り、夜中にゆっくり移動しました。到着まで3日かかりました。

 朝8時に国境に着くと、バングラデシュの国境警備隊に避難民皆が止められ、夜10時まで水も食料も無い状態でその場に留め置かれました。あの時の激しい喉の渇きは忘れられません。その後やっと入国が許され、歩き始めました。当時2才の娘を抱いていた妻が疲れ切って歩けなくなり途方に暮れていた時に、現地のバングラデシュ人の女性が声をかけて全員を家に泊めてくれました。その後も多くのバングラデシュ人が私たちを支援してくれました。

ハキンパラでの暮らし

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ハキンパラからミャンマーの山並みを望む(CJRCS

 当初はクトゥパロンを目指していましたが、現地で知り合った人の勧めでハキンパラ(現在のキャンプ14)に住むことに決めました。一緒に避難してきた親戚10世帯近くが近所に住んでいます。このような規模の一族でまとまって避難してきた例は他に見たことがありません。

 ミャンマーから持ってきたお金をバングラデシュのお金に両替して竹を買い、ビニールシートを一枚もらうことができたので、屋根と柱だけのテントを建てました。その後援助機関から竹やビニールシートが配付されるようになり、修理を繰返して今の住居になりました。両親は私の家のすぐ裏に住んでいます。持病のある父は近くの診療所で高血圧の治療を続けています。母は喘息があり、治療を受けられるキャンプ12の日赤支援の診療所まで通っています。

日赤との出会い

 日赤の要員が通訳を探すため、マジ(キャンプ地区のリーダー役)である私を訪ねて来たのが私と日赤の出会いです。話を聞いてすぐに自分も通訳として参加することに決めました。9月27日には日赤診療所での活動に参加し、ボランティアを取りまとめるリーダーになりました。

今は整備されていますが、当時のハキンパラは坂が多くて滑りやすく危険でした。そこの坂の階段は最初に日赤が作ったんですよ。

5年間の変化

 初めのうちはバングラデシュの人たちからの支援や交流がありました。キャンプの周囲にフェンスとゲートができたためにお互いに行き来ができなくなり、私的な支援は無くなりました。食料配布や水、医療など援助機関からの支援は整ってきました。

 まだミャンマーに残っている親戚もいます。義理の妹は国境から20㎞ほど離れた内陸部にあるプティダウンに住んでいます。妊娠中で2つの山を越えることが難しく、バングラデシュへの避難を断念しました。電話で連絡はとっていますが、お金や物資を送って助けることはできません。

 5年近く家族のような存在の日赤チームと一緒に活動を続けてきました。今年になって政府が私たち避難民ボランティアの日当上限を定めたことから収入が大幅に減った上、施設のある地域の外からボランティア活動に通うことを禁止したため、私もボランティアを辞めざるを得なくなりました。これまで皆で築いてきたものが壊されてしまったように感じ、非常に辛い経験でした。

今はハキンパラでNGOが運営する学校の教師をしていますが、今でも日赤チームは家族だと思っています。もし制限が緩和されてチャンスができれば、また日赤の活動に参加したいです。

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ボランティアとして働き始めて7か月過ぎたころのゴニさんと日赤要員(C)JRCS

避難民の人々へ継続した支援をお願いします

 ゴニさんが活動した日赤支援の診療所でも、この5年間に様々なドラマがありました。新しい診療所にスタッフやボランティアが思い思いに植えたバナナやパパイヤの苗は大きく育ち、甘い実をつけています。若手通訳ボランティアのアジズとタラが結婚して赤ちゃんが生まれたという嬉しいニュースもありました。

 その一方でウクライナ紛争等の世界情勢が厳しさを増す中、資金の減少やなどからバングラデシュにおける援助活動も影響を受けています。そのような中で日赤はこれからも避難民の方々が互いにつながりを持ち笑顔でいられるように活動を続けていきます。今後とも皆様からの温かいご支援とご協力を、どうぞよろしくお願いいたします。

*国際赤十字では、政治的・民族的背景および避難されている方々の多様性に配慮し、『ロヒンギャ』という表現を使用しないこととしています。

 日本赤十字社は、ミャンマーからの避難民の心身の健康と尊厳を守るため、支援活動を行っています。皆さまの温かいご支援・ご寄付をどうかよろしくお願いいたします。

※日赤へのご寄付は、税制上の優遇措置の対象となります。詳しくは税制上の優遇措置をご覧ください。

(税制上の優遇措置について)

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